ある夜のはなし

 目を開ける。
 暗闇の中、物の輪郭がぼやけながらも黒の塊を象っている。この部屋に時計はなく、射し込む日の光もないので、今の時間を知る術はない。私はすこし身動ぎをして、体勢を反対方向へと変える。いつもは仰向けに寝ているが、今日は横を向いたまま寝てしまったようで、片耳が圧迫されたせいかじんわりと痛い。自分の立てる衣摺れの音が止むと、しんとしてやけに静かに感じた。他には何の音も聞こえない。

 目を閉じる。
 自分の呼吸する音。足先とシーツの擦れる音、髪の毛先が鼻先をくすぐって、片手で避ける。
 本当にここには自分しかいないのだと、改めて認識した事実が急に押し寄せて、胸をかすめて通り過ぎていった。
 
 目を開ける。
 先ほどと何も状況は変わっていない。久しく眠りに落ちることができなくて、私は身を起こす。豆電球の薄い橙色の光の中、椅子にかけてあったカーディガンを羽織り、机に置いたままだった髪ゴムを使いざっくりとかきあげて結ぶ。どうせ誰もいないのだからと、用意もそこそこに玄関のドアを開けた。

 私はただ真っ暗な空間の中を歩いている。
 せめて草木や建物があって、風景の変化があればいいのだが、そんな期待はするだけ無駄だった。久しぶりに履いたヒールのない靴は足にはまっておらず、何度か脱げそうになり体勢を直す。
 長らく自分の足音しか聞こえていなかったが、何か別のリズムで生まれる音を聞きつけた。私は立ち止まって耳を澄ます。前方の遥か遠く、黒い何かがこちらに向かってゆっくりと歩いてきている。私は目を凝らして姿を見ようとする。
 それは4本足で歩いていて、首にバンダナを巻いていて…丸みを帯びた耳が付いている。犬や猫ではない。私はそれがどういった生き物なのか、判断しかねていた。そうしているうちに、どんどん近づいてきていた。
 私は注視するのをやめて、それから離れようと踵を返した、瞬間。

 勢いをつけて、何かが顔面に直撃してきた。

 突然のことに視界が揺らいで、そのまま背中から倒れてしまう。痛みに少しうろたえながらも、私は首を振って辺りを見回す。すると、のそりと動く影を見つけた。それは先ほど私に近づいてきていた生き物で、つぶらな黒の瞳でじっと見つめてくる。

 どうやらそれは動物らしかった。長い鼻に、白と黒のツートーンの体。
 私がしげしげと見ていると、それはずいと顔を寄せてきて、私の赤くなった額を鼻で撫でた。少し伏せた眼が申し訳なさそうにしている。そういえば、先ほどの衝撃の原因は何だったのだろうと疑問に思っていると、1羽の鳥がさえずりながら、それの頭にちょんと留まった。鳥はなぜか首元にタイをつけていて、金縁の丸い眼鏡をかけている。こちらを見たかと思うと、つんとした様子でそっぽを向いてしまった。先ほどぶつかったのはこの鳥だったのか、と思っていると、頭に乗られたそれは怒ったように、ぶんぶんと頭を振って鳥を追い払った。鳥はたまらず飛び立って、辺りを旋回している。
 随分とヘンテコな生き物に出会ってしまったなと、私はふうと一息つく。
 「君たちはどこから来たんですか?」
 私は対話を試みてみる。

 少し首を傾げたまま、それはこちらをじっと見つめている。
 ややあって、それは何か思い当たったようで、脇に下げていたカバンを前足で器用に探り始めた。そうしてカバンから取り出されたのは、数枚の写真だった。おずおずと、それらの写真が私の前に差し出される。
 「見ていいのかい?」
 それはこくりと頷く。
 渡された写真は、食べ物の写真だった。しかしただの食べ物ではなく、とてつもなく大きいサイズだった。
 今眼の前にいるそれは、私の身長の腰くらいまでの大きさだが、写真の中では見上げるように映っているものが多く、どれも画面いっぱいに広がっているのだ。光を受けてみずみずしい野菜の雫や、甘い菓子のふんわりとした匂いが写真から流れ出てくるように感じる。写真の中のそれは、どれも食べ物の間の道を歩いて行っているのだった。
 私はふと思いついたことを言ってみる。
 「もしかして、旅をしているのかい」
 私は尋ねる。すると、それはこくりと頷く。頭上の鳥はピチチと同意するように鳴く。
 「そうか」
 私はそれに写真を返す。
 「見せてくれてありがとう」
 にこりと微笑むと、それは嬉しそうに目を細めて、大切そうにカバンにしまった。

 鳥が、ピチチ、ピチチと、何か言うように鳴いている。鳴き声を聞いた途端、それははっとした様子で、のそのそと歩き始める。私の脇を通り過ぎ、ふいに振り返る。
 こちらを見つめている、つぶらで穏やかな瞳は、まるで夜のような色をしている。私は片手を軽く上げて、話すことのできないそれに向かって言った。
 「良い旅を」
 当然返ってくる言葉はなく、それは前へと向き直ると、のそりのそりと歩いていく。
 後をついていく鳥の甲高い鳴き声とともに、それは黒い色の向こうへと溶けていった。

 また1人になった空間に立ち尽くしていた私は、もう寝よう、と元いた部屋へと戻ることにした。
 ドアを開ければ、数十分前と部屋の様子は変わっていなかった。私はベッドへと飛び込み、掛け布団を引き寄せ、くるまって目を閉じる。眠ることができるかは相変わらず分からないが、ただあの生き物たちに出会ったこの夜は、悪くはないなと思った。

*イラスト集「Vignette」コラボ掌編(2018.11/25〜12/1配信折本)

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