名残

 流れていく景色を目で追う。高層ビル群と、それらの間を縫って私鉄の線が伸びる。目の前を過ぎ去る幾つかの窓を見ると、デスクで仕事をする会社員の姿が何人かある。小 さな世界を垣間見たような気がした。やがてオフィス街を抜け、電車は橋に差し掛かる。少し金属音が大きくなると同時に、小学生の男の子2人が騒ぎながら通り過ぎていった。1・2年生くらいだろうか。小さい背中には余る大きさの、真新しいランドセルが上下に揺れる。2人が車両を繋ぐドアの向こうに消えてしまい、車窓に視線を戻すと、青みがかった灰色の空にちらちらと白いものが舞っていた。雪だ。

 あまりの寒さに身が縮こまる。緩んでいたマフラーを巻き直し、外れないように後ろで端を結ぶ。付けてきたマスクの紐で、耳の後ろが少し痛い。静まり返る公園は、慣れた場所であるはずなのに見知らぬ顔をしている。植物も建物も息を潜め、白を被ったままひっそりと立ち尽くしていて、所々遊具の鮮やかな色がのぞいている。吐く息が立ち上っては、空中で淡く溶けて消えるのを見ていると、不意に声がした。
「お待たせ」
 振り返ると、真っ黒な髪に細めの黒縁眼鏡をかけたーー直寛くんが小走りでやって来る所だった。
「風邪なの?」
「ううん、予防だよ。お母さんにしていけ、って言われて」
「そっか。確かに、最近流行っているもんな…気を付けないとなあ」
 だよなあ、と2人で頷き合う。クラスでも、インフルエンザで寝込んでしまった友達が何人かいる。以前かかった事があったが、大変な高熱を出し、母さんや父さんが代わる代わる看病してくれた。うろ覚えだからあまり自信は無いけれど。
「でも俺、予防注射は受けたくないな…痛いし。しかも、受けたってかかる事もあるらしいじゃん。それなら自力で治す」
「強気だなあ、直くんは」
「薬に頼りたくないしな」
 目を細めて笑う。昼下がりの午後、暖かな日差しを思わせる笑顔だと思う。艶やかな瞳がこちらを見る。
「そういえば、あいつはまだ来ないのか」
「多分寝坊でもしてるんじゃないかなあ、寒くて起きるの苦手らしいし」
「せっかく朝早く来たっていうのに、言い出したやつが遅刻って」
 ざり、と擦れた音を立てて雪を蹴る。土は見えない。随分積もっているようだ。早朝の、住宅街から少し離れた公園だからなのか、人の気配はまだない。たまに雀がやって来て、枝の先を揺らして去る。雪原には誰の足跡も無く、僕らが一番のりだという事を示していた。日の光が白く反射して、星のようにきらきらとしている。小枝の影が血管のように長く伸びて、丘を覆ってしまう程だった。不意に、軽い衝撃と共に冷たさが滲んだ。驚いて振り返ると、直くんが雪玉を片手にこちらを見ていた。何か企んでいる顔で。
「ちょ、え、何⁉」
「雪合戦!しようぜ!」
「え、いやまだ人数揃ってないじゃん、待った!!」
「もー我慢できないから!先に始めよう!!」
 容赦無く始まった戦いは、結構な長期戦となった。家に雪に濡れた状態で帰ったら、家族に怒られた事を、覚えている。

 がたん、と大きな揺れがして目を覚ます。何度か瞬きをしながら顔を上げると、家の最寄り駅に到着していた。鞄を引っ掴んで慌てて降りると、間を置かずにドアが閉まる。各駅停車の車内は人も疎らなまま緩やかに走り出して、みるみるうちに小さくなって行った。忘れ物はしていないだろうかと、持ち物を確認する。幸い手に持っていた文庫本を落としてはいなかったようだ。ほっと一息つく。見慣れた駅のホームは、橙色の光に包まれている。家に帰る人々は改札に続く階段へと向かい、次々とホームから消えていく。僕も後を追う。茶色がかった黒色の柱の影が、顔や身体に歪な線を引く。歩き出すとそれは離れ、続けて眩しい西日が視界の端から差して来る。思わず目を細める。何処からかお惣菜の匂いがする。

 彼は来なかった。
 もう何年も姿を見ていない。小学生の頃は友達と毎週遊びに来ていた。10年くらい前の話だ。まだ20代前半の年だというのに、昔の思い出をしみじみと思い出している自分は我ながら老人のようだと思う。友人から、同い年なのにお前は年上みたいだな、と言われる事に納得がいかないが、これも要因の一つだろうか。考えながら大きく伸びをする。何年も使い続けている学習机の椅子は、少し傾けるだけで大きな音を響かせる。明日の授業の為に予習をしていたのだが、集中力が切れた。時計を見ると8時を指している。ややあって、ドア越しに控えめながらもよく通る声が聞こえてきた。
「啓、御飯出来たぞ」
「分かった、すぐ行くよ」
 書きかけのルーズリーフを教科書の間に挟み、部屋を出る。
 明日も東京では雪が降る。

*小冊子「どこかのはなし」書き下ろし掌編(2015.2/26)

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