ぺったりと平滑で、黒い画面が私の視界を覆っていた。
 上下左右の区別もつかず、目の前に紙が貼付けられたかのように、首を動かしてみても景色が変わらない。自分の姿さえ見えないほどの濃厚な暗闇で、視点が動いているのかさえも疑うほどだった。
 良く似た状況で、眠る前の消灯した室内が思い浮かぶ。長く見つめていると、ぼんやりと物の輪郭が現れてきて、辺りの様子が浮き上がって見えてきたものだった。それに倣い辛抱強く目を凝らしていると、段々と暗闇がこっくりとした深みのある色に変わっていき、ノイズを走らせながら赤や緑や青の色味がごちゃごちゃに混ざり合い、青味の色を強くしていく。今回は視界が開ける時間が早いな、とぼんやり考えていると、やがて上から青のグラデーションが降りてきて、黒色は少し下に追いやられた。見上げると、青黒い空の中にぽつぽつと、弱々しくも白くきらめいている点がいくつかあった。

 きらきらと輝くそれを眺めていると、どこからか声が聞こえてきた。人の気配がする。そう思い辺りを見回すが、周りには何もない。
ひそひそと話すような、複数人の囁き声。小さすぎて内容の判別はできず、ただ耳障りな音となって鼓膜を引っ掻くのみだった。はっきりとは分からないが、おおよその位置は把握できた。
 少し離れておこうと思い、姿の見えない声の主に気づかれないよう、そっと一歩踏み出した途端、

 ばしゃん、と音が響いた。

 降ろした足が液体を踏み抜いたようだった。今まで感じていなかった事が嘘のように、足下に抵抗を感じ、驚いた拍子に加えて数歩後ずさってしまう。発した波紋が、薄明かりの下で広がっていくのが見えた。そこから生まれた細く白い円は、大きさを広めながら吸い込まれるように黒い空間へと溶けていった。
 声は先程より大きくなっていて、こちらに向かってきている気がした。一度音を鳴らしてしまえば取り繕う必要はないだろうと考え、構わずに歩を進める。やがて走り出した。

 私自身の発する音がやけに大きく響く。着水と水出を繰り返し、波はぶつかり合って飛沫を顔まで届けた。透明な水は青色には染まらず、白く揺れる境界線と、わずかな光を反射するだけの膜になっていた。透かして見ても底の色も真っ黒で、覗き込む私の顔が波で崩れていくのが見えた。

 穏やかな色が包み込む空間の中、1人で走り続ける。いつからこの状態になったのだろう。頭の中から記憶を引っぱり出そうとしても、掴んだ端から泡のように消えてしまって、まるで手応えを感じない。思考は途中からさっぱりと分断され、進めようにも先に行く道筋が見つからず、立ち止まってしまう。ここと同じような暗闇がぽっかりと口を開けていて、踏み出す先は無い。初めは怖さや不安があったが、いつまでたっても暗いままの空間に1人でいると、次第に慣れていってしまった。そして今日が何日だとか、今は何時だとかはさほど気にならなくなった。日の境は曖昧なままでも、一直線に伸びた軸の上にこの時間は連続していて、それに乗っかって毎日を過ごしている。その事に気づいてからは、今を生きているという事実があれば、それで十分と思うようになった。

 何mくらい走っただろうか。大して日頃運動もしていないため、息は切れ、呼吸する音が荒くなる。声は小さくなるどころか、どんどん大きくなって近づいて来ていた。相変わらず雑音しか聞こえず、密集した気配を漂わせている。周りにどこか隠れられる場所は無いだろうかと探していると、数m先に人影があった。 姿は上手く像を結ばず、不確かな線を描いている。周囲と比べてわずかに濃い黒色で、背格好は自分と大して変わらないように見えた。顔はよく見えない。しかしゆっくりと動くその影に、不思議と恐怖は感じなかった。

 ざわめきが迫っている。一刻も早く背後にいる得体の知れないものを遠ざけたくて、助けを求めようと思い、精一杯足を振り上げ、水面を蹴り、手を伸ばす。

 騒ぎ立てる話し声と、足下の響く水音、頭の奥で感じている耳鳴り、それらが私の聴覚を埋め尽くす一瞬、

 人影がこちらを見たような気がした。

***

 顔を上げると、何処かの喫茶店の席に座っていた。
 耳に貼り付くような音はいつの間にか消えていて、心地よい静けさが漂っていた。

 暗めの店内を橙色の照明がじんわりと照らす中、カタン、と微かな音が聞こえて手元を見ると、温かなコーヒーが一杯置かれていた。すぐに目の前を見たが、そこには何の人影も無く、様々な種類のコーヒー豆を詰めた瓶が見えるのみだった。掴みかけたと思っていたのに逃してしまった。

 仕方なくカップを手にとる。湯気がふわりと頬を撫でて消えていき、程よい苦みと香ばしい香りが、熱と共に喉からすっと降りていく。
 ふとカウンター席の端に、座っている人物がいる事に気が付いた。今度はしっかりとした線を結んでいて、温度と量感を持った人だ。肘まで伸ばした黒髪は細い線で描かれ、整えられた薄桃色の爪が綺麗な女性だった。
 彼女は窓の外の景色を見ていた。おびただしい数のネオンや街灯が照らし、地面を覆った水面を輝かせている。多くの人々が行き交い、水を蹴りながら進み、かき混ぜる。走って来た場所とよく似ていると思った。彼女は首を傾げる。少しだけ見えた横顔では思い悩んでいるのか難しそうな表情をしていた。

 声を掛けてみようか、と思いついた。正体不明のものに追いかけられ、暗い中を走り続けた事で、やっと人に会えた事が嬉しかったのかもしれない。どう声を掛けたらいいだろうかと思案する。世間話をするように、不審だと思われないように、慎重に言葉を選び組み立てておく。

 コーヒーカップの水面に映った私の顔は、黒の中で見た時とは全く別の顔をしていた。そっと髪を束ねている白いリボンに手をやると、さらりとした感触が指先に伝わり、懐かしい感情が仄かに立ち上がって消えた。まっすぐに視線を向け、普段通りに接すればいいのだと自身に言い聞かせ、

 私は口を開いた。

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