どこかのはなし

 ふわふわとした雲が空を流れて行く。普段は見上げているものが、今は僕の隣を悠々と泳いでいる。その上自身を乗せて空高く浮かんでいるというのは、不思議な事だと思った。眼下には生まれ育った街が見える。小さい頃通った真っ白な図書館、噴水のある公園、古びた家など豆粒のように小さかったが、遠くからでも分かった。

 上空では優しい風が吹いている。加えて春のような日差しもあり、眠気を誘う。堪らず欠伸が出た。少し横になろう。寝転ぶと顔にふわり、と細かな水滴がかかる。そして微かに潮の匂いが漂ってくる。海が近いのだろうか。うとうとしながら考えるが、思考はほろりと溶けては消えていってしまう。

 瞼は重く、やがて目を閉じる。ふっと意識が途切れ、辺りが穏やかな暗闇に包まれる。

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 視界が白で塗り潰されていた。

 白飛びし、輪郭もおぼろげな手で周囲を探ると、丸みのある角に触れた。面と思われる場所を撫でると、僅かな木目の凹凸が感じられた。他にも淡く落ちた影を頼りに指で辿ると、机や窓がある事が分かってきた。最初に触れた物はどうやら椅子だったようだ。

 とりあえず腰を下ろし、足裏についた砂粒を払い落とす。音もなく砂が落ちる。
 ふと机上に目をやると、一点だけ絵の具の染みのようなものがあった。鮮やかな赤色で、先程置かれたらしく、まだ水分を保っている。光を映した水滴はやがて、くるくると回り出し、机から滲み出した色が寄り集まって渦を巻く。何度か見た光景に、軽く息を吐いた。

***

 インクが溶け出して、駄目になってしまった絵のようだった。黒を滲ませ沈んだ紫や黄色ばかりの花々は、生気が感じられない。枯れているのかと思ったが、触れてみると葉や花びらにはちゃんと水分があり、湿っている。廃れた街には蔓草が侵食し、人の気配は無い。空は夜明け前の色を変えずに止まっている。

 風ひとつない静かなこの場所では、彩度の落ちた色と黒しか目に映らない。気が滅入ってくる。

 ふと、何かが視界の端で動いた。そちらに視線を向けるが、相変わらず植物と廃墟しかない。疑問に思っていると、花々の間から何者かが飛び出して来た。やっと人に会えた、と喜びかけたが、蔓草や花に全身が覆われていて、果たして人間なのかどうかも判別出来なかった。怖いと思うのに、目を逸らす事が出来ない。草花の影の奥から、こちらを見つめる目が見えた。

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 空が揺らめいて、雲の隙間から射す光が街を照らし出した。
 不規則に動く光線と青色の視界は、水の中を思い起こさせる。遠くで車の走行音、鳥の羽ばたき、歩行者用信号のメロディーが鳴っている。

 穏やかな陽気のなか、踝まである水を跳ねながら進む。見慣れた景色の交差点、水に浸された道路に、向こう側で信号を待つ人々が映り込む。水の透明度は高く、地面が鏡の様に見える。その一団の中で動いた人影に、見覚えがあった。
 あれは、誰だったか、と考えていると、一際強い風が吹いた。水面を滑る突風に黒髪が乱されて、視界が一瞬遮られる。

 信号が青になる。雑踏の音は聞こえない。

 耳元でひとつだけ、水をかき混ぜる足音が鳴っていた。

***

 橙色の光が辺りを照らす中、柱時計の振り子が規則正しく動いている。木製の本棚が所狭しと並び、電球の明かりを映す。本は洋書が多いが、文庫本、写真集、絵本など、種類は様々だ。

 ぱらり、頁をめくる音が微かに聞こえる。音を頼りに、迷路のような通路を縫って行くと、古びた扉の前に辿り着いた。注意深く見なければ見過ごしてしまいそうな、壁と似た色のものだった。そっと開くと、物書き机や椅子が並ぶ小さな書斎だった。
 床には臙脂色の絨毯が敷かれている。家具はセピア色で統一されており、よく見てみると丁寧に彫られた蔓草の装飾が付いている。

 室内を見渡すと、こちらに背を向けて、椅子に座っている人物がいた。その人は徐に読んでいた本を閉じ、ゆっくりと振り向いた。
 窓の外では、藍色の夜に包まれながら白い星が瞬いていた。

***

 枕元にある時計のアラームで目が覚めた。

 慣れた手つきで止めて、ベッドから抜け出す。軽く伸びをする。まだ寝ていたいと思うが、二度寝をする余裕はない。

 洗面所に立ち、蛇口を捻る。冷たい水で顔を洗い、歯磨きをしていると、やっと目が覚めてきた。
 冷蔵庫から牛乳を取り出し、透明なコップに注ぐ。朝食を摂ろうか、と暫く考えたがやめた。もう随分と食べていないが、悪い習慣になってしまったようで、胃が動かない。また今度試みる事にし、身支度をする。

 一通り準備を終えて、玄関の鏡で姿を確認する。そこに映る私の表情は、不安と期待が入り混じっている。いつまで経っても、この瞬間は気持ちが揺らいでいる様子が見えてしまう。首を横に振り、忘れる事にする。出発予定の時刻に近付いている。

 深呼吸をして、ドアノブを掴む。勢い良くドアを開くと、

 

 日の光も届かない真っ暗な空間が広がっていた。

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