光揺らぐ

 がやがやと騒がしい食堂の中。大きめの窓からは、暖かな陽射しが伸びてきている。ちょうど昼ごろだからか、人がたくさんいる。少し時間をずらして来るべきだったかな、と今更思う。大学の食堂なんて数年前に卒業して以来だ。見知らぬ場所なのに、どこか漂う雰囲気が懐かしく感じて、気が緩んでしまいそうだ。途端、お腹がぐうと鳴って、慌てて手のひらでおさえる。誰も聞いていないだろうに、少し恥ずかしくなる。
 今日はご飯を食べに来た訳ではなかった。
 ある人を探しに、再び私はここに来ていた。家から数駅で着く私立美大ーー杷野美術大学に。

 私は辺りを見回す。着いた当初は、黄色のボブカットの男性なんてそんなにいないだろうと高を括っていたが、意外にキャンパス内にいた。前回芝生で会えたのが不思議なくらいだ、と何人めかの人違いが発覚した辺りで私は気付いた。そういえば、何科の人かも知らない。これでは探しようがないじゃないかと、途方に暮れてしまった。意気揚々と家を出た時に持って来た気概は、とっくのうちに萎んでしまっていた。だからせめてもの元気付けと慰めのために、私は食堂に来ていた。
 そう、これは休憩、と自分に言い聞かせ、山のように積まれた淡い色のトレーを一枚持って、カラフルな格好の学生たちの列に紛れる。なんとなく、おしゃれな人が多い気がする。あと、奇抜な人も何度か見た。
 よくサークルの人たちで、お昼食べてたよなあ、と学生時代を思い出す。くだらないことで盛り上がれて、合宿と言いながらも旅行にも行ったっけ。あの気弱な後輩は元気だろうか、と考えていると、前を見慣れた髪色が横切った。
まさか、と思い、通り過ぎた人物の後ろ姿を見る。黄色のボブカットに、サスペンダー。少しだけ見えた、通路を歩く横顔は、少し細めの目と太い赤縁眼鏡。
 見つけた!と言おうとしたところ、「はい、食券出してねー」とおばちゃんに言われる。あ、はい、と返事をして、手で持ったままだった券を渡す。

 キャンパス中央の広場が見渡せる、窓際の机に上町達はいた。突然現れた私に、上町は少しだけ目を見開き、途端不機嫌そうな表情に変わる。気づいたが気づかないフリをしてそっぽを向く。軽く片手をあげて、私は話しかける。
「お久しぶり」
「なぜまた居るんですか」
 じろりとした視線を上町は寄越してきた。
「あ、おひさしぶりです」
 朗らかな笑顔で佐々木はゆっくりと頭を下げる。
「あ、あの、こんにちは」
 戸惑いながらも、傍に一緒にいた女の子は、栗色の内巻きにした髪を揺らして言った。小柄な子で、高校生や中学生と間違われそうだな、と思った。小さめの手をぎゅっと膝の上で握りしめている。こんにちは、と返すと、ぺこりとお辞儀をされた。小さな口を動かして彼女は言う。
「初めまして、紀国といいます」
「丁寧に、どうも。私は、倉阪 葵」
「で、何の用ですか」
 上町は会話を割って入ってきた。
「実は、大事な話があって。放課後、ちょっと話につきあってほしい」
「嫌です」
「聞いておかないと後悔すると思うよ?」
 私は試すような口振りで言ってみる。上町は視線を合わせない。以前、店で会った時よりも手ごたえがない。不安に思うが、ここまで来て後には退けない。佐々木も、いいの?と確認するが、特に返答はしない。紀国は上手く状況が飲み込めないようで、上町と私の顔を交互に見ている。
「まあ、いいや。また勝手に待つから」
 言うだけ言って、私は彼らの元を去る。選択肢は「待つ」しかなかった。
 どうしても、伝えなければいけない事がある。
 このまま帰ってしまったら、きっと後悔する。
 そう自分に言い聞かせながら、私は運良く1人分の席が空いていた長机の席にすべりこみ、ぱん、と手を合わせる。

***

 倉阪の姿が遠ざかっていくのを見届けると、佐々木が話しかけてきた。
「さっきのって、この間話してたコンビニで働いてるひとだよね?」
「まあ、そうだな」
「初めて話す感じじゃなかったけど、どこかで会ったの?」
「まあな」
「へえ」
「気になるのか?」
「そうだね〜…うん。なんか、気になること言ってたけど、ほんとに話聞かなくていいの?」
「いいんだよ、放っておけば」
「そうかなあ」
「それより、そろそろ昼休み終わるぞ」
 壁にかかった時計を指差して言う。
「え、もうそんな時間?移動しなきゃなあ」
 佐々木は立ち上がりながら言う。
「上町くんときのちゃんは、次授業どこでだっけ?」
「わ、わたし、次は空きだから、アトリエ行こうかと…」
「自分も。じゃ、行くか」
 あいかわらずのんびりとした様子の佐々木と、何故か少しそわそわし出す紀国と一緒に、トレーを下げて食堂を出る。
「あ、とろろだ」
 紀国が嬉しそうに言う。食堂の出入り口の傍にある小さな小屋から、のっそりとした足取りで、小太りの茶トラ猫が出てきていた。眠そうな目で、にゃあ、と小さく鳴く。キャンパス内には、何匹かの猫が住み着いていて、学生達に可愛がられている。佐々木と紀国はしゃがみ込んで、とろろと呼ばれた猫を撫でている。とろろは気持ち良さそうに目を細めていて、幸せそうに見える。自分はその様子を数歩離れて見ていた。猫は苦手で、無意識に距離をとっていたことに気づく。小さい頃の記憶が一瞬、過ぎ去っては、消える。
「もう時間だけど」
 自分が言うと、佐々木ははっとした様子で立ち上がる。
「じゃ、僕急ぐね!」
 慌てて、講義棟への道を走っていってしまった。後に取り残された自分たちは、佐々木と、とろろの歩いていく姿を見送ってから、アトリエに続く階段を上っていった。

***

 キャンパス内の図書館で見慣れない雑誌をめくって過ごし、陽が傾いた頃。ふあ、とあくびが出る。私は校門の脇の花壇の前で待っていた。道を挟んだ向かい側の空き地の空に、鮮やかな橙色の夕日が浮かんでいる。ぼんやりとそれを眺めていると、微かにチャイムが聞こえてきた。しばらくして、ぽつぽつと学生たちが歩いて来る。脇にある駐輪場から、自転車に乗った人も通り過ぎる。
 すると、颯爽と赤色で細身のフレームの自転車が見えた。学生でも洒落たやつに乗ってるな、と思いながら見たら、上町だった。逃げられないようさっと目の前へと立ちはだかる。けたたましい、大きなブレーキ音が鳴る。あと数センチでぶつかっていたかもしれない。内心ひやりとしたが、咄嗟に思いついたから荒っぽいやり方でも仕方がない。無理矢理に進路を止められた上町は、若干舌打ちをした気がする。仮にも歳上なので敬ってほしいと思うが、振り回しているのは自分なのでおあいこだ。
「そこにあったファミレスで話そうか」
 私は大学に来る道の途中で見た、ファミレスの看板を指差した。どこにでもある馴染みのチェーン店だ。
 上町は自転車を降りて言う。
「あんた、物好きですね」
 若干の皮肉。まあね、と受けて流す。

 安っぽいチャイムが私たちを出迎えて、緑色のエプロンをした店員がやって来る。人数、禁煙を伝えて、窓側のテーブル席へと通される。辺りに学校があるからか、学生達の姿が目立った。高校生と大学生が多い。ぎゃはは、と少しうるさい声が中ほどのテーブル席から聞こえた。
「何か頼む?」
 私は席に着きながら聞く。席にあらかじめ置かれていたメニューを、上町はちらりと見る。
「ドリンクバーがあればいいです」
 長居はしないつもりらしかった。テーブルの傍らのベルを押し、店員にドリンクバー2つ、と伝える。特に嫌な顔はされなかった。学生が多いからなのか、ちょっとだけありがたかった。

 各々飲み物を取ってきて、座り直す。ブラックコーヒーとサイダー。飲み物だけ見たら、大人と子どもで来たのかと勘違いされそうだ。窓の外はとっぷりと暗くなっていて、ぼんやりと黒く建物の影が象られていた。新しく開発された土地なのか、どの家も建設中らしかった。電柱に取り付けられた街灯が、所々道を照らしている。そして、時折何人かの賑やかな話し声が窓の前を通り過ぎる。
「で、話って何ですか」
 早々に話題を切り出された。心の準備は上町を待っているあいだにしたはずだったが、私は、少し言い淀む。眼鏡の奥の目がじっとこちらを見ている。
「その、言いづらいことなんだけど」
「ええ」
「最後まで聞いてよ」
「はい」
「…紀国ちゃんが、通り魔に襲われる」
 上町の動きが、一瞬止まる。
「授業の帰りか、分からないけれど、灯りの少ない夜道を歩いてる。そこに、後ろから誰かが、やってきて…襲われる。どんな人かは、分からない。ただ、とても動きが素早かったのに、体が大きかった事は覚えてる」
 少し間を置いて、そして、微かにため息を吐いた。
 友達が事件に巻き込まれると告げられるのは、気持ちの良いものではないだろう。分かった上で、私は反応を伺っていた。続けるべきか、返答を待つべきか。言い出したくせに、私は迷っていた。
 上町は舌打ちした。先程より大きな音で。
「それ、本気で言っているんですか」
 眼鏡の奥の目は苛立っていた。
「ええ」
「前に、言いましたよね?必ず起こるとも限らないと」
「覚えてる」
「こうなるかもしれない、と言い渡される側の気持ち、考えたことあります?」
 少し怒っているような声で、上町は言う。私は唇を噛む。
 不安な状況に陥らせる言動だとは感じていた。だけど、可能性があるということは、事情を知っているとはいえ、伝えておくべきだと思った。それは上町達のためなのか。そんな綺麗事でもないような気がした。
「考えていない訳じゃない」
「だったら」
「可能性があるなら、私は変えられる方に賭けてみたい」
上町は口をつむぐ。

 信じたくない。
 それはそうだろうと、私も思う。

 事情をある程度知っているらしい上町はどう返してくるのかと、私はある種期待をして話題を持ち寄った。お互いに何も発さない時間が経つ。
 けれど返答は、ぞんざいなものだった。

「じゃあ、自分は帰りますから」

 上町は立ち上がろうとする。
 私は虚を突かれた。

 答えはあるようで無かった。

 上町は、席を離れようとする。この間、2人で駆け込んだ店でのやり取りが思い出される。また置いていかれてしまうのかと思い、私は行く先を防ごうとした。呼び止めるために、私は口を開いた、その時。
 上町の身体が、不自然にぐらりと傾いた。急に力が抜けてしまったかのように、膝ががくんと落ちる。バランスを崩して、手を伸ばさず、そのまま店内の床へと倒れこんだ。へ、と間の抜けた声が私の口から漏れた。
「ちょ、ちょっと、上町⁉︎」
 駆け寄って肩を揺らしてみるも、反応がない。
 どういうことだ。
 近くの席に座っていた女の子達は、驚いた様子でこちらを見ている。頭の中が真っ白になり、店員さんを呼ぼうと顔を上げる。するとーー
「あれ、上町くん⁉︎」
 聞き覚えのある声が、聞こえた。

 

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