透明な思い

ぼくのねーちゃんは、おせっかいだ。ぼくがまだ小さいころ、家から歩いて10分くらいのスーパーに、ひとりで行ってくると言って出ようとしたら、まだちっちゃいでしょあんたは!と止められた。
なんだよ、あそこのお店だよ。よく行ってるじゃん、と言い返すと、ねーちゃんは、あんた、川の上の一本橋とか、空き地のフェンス乗り越えるとかして寄り道するでしょ。危ないからやめなさいってお母さんに言われてたでしょ?行くなら私も一緒に行く。と言ってきた。うちではお母さんが2人いるようなもんだ、と友だちに文句を言ったこともあった。友だちはたいへんだなー、と笑っていた。
いつだって、ねーちゃんはぼくを子ども扱いしてくる。年が離れてるからでしょう、心配してるのよ、とお母さんに言われたが、ぼくにとってはひとりでは何もできないみたいに思われるのがいやだった。ぼくは頬っぺたを膨らませてそっぽを向いた。
 そういう時、ねーちゃんの事はきらいだった。

 その日も、いつも通りに朝ごはんを食べようとしていた。けど、今日はちょっとだけちがった。ねーちゃんの方が先にイスにすわって食べていたのだ。
「あれ、今日は早いね」
「そう?まあ、たまにはね」
 ふふん、と鼻をならして、ねーちゃんは得意げな様子だ。でも正直そんなに早起きじゃない。ふーん、とぼくはあいづちをしながら自分の席にすわる。
 あれ、とぼくはある事に気づいた。
 テーブルの中央に、真っ赤なイチゴが、何個かガラスの器に入っていた。ねーちゃんは、ひょいとそれをひと粒取って、おいしそうに食べている。
 ぼくは、え、と言った。
 どうしたの?とねーちゃんは振り向いて言う。
「今度の土曜日に、パンケーキを焼いたげる」一昨日くらいに、買い物から帰ってきたときにねーちゃんはそう言っていた。にこにこした顔で、イチゴも買ってきたからのせて食べよう、と。ぼくはねーちゃんの作るお菓子が好きだ。お母さんのご飯にはかないっこないから、私はお菓子づくりをがんばる、と前に言ってた気がする。ともかく、ぼくは土曜日が楽しみだった。冷蔵庫の中の、透明なプラスチックケースに入ったイチゴを見かけるたびに、甘くてふんわりとしたパンケーキが頭の中に出てきて、くるりと一回転した。ちょっと幸せな気持ちになって、そっと冷蔵庫のドアを閉めていた。なのに。

 あんなに、楽しみにしてたのに。
 忘れたの?

 ぼくは、ついかっとなって、
「ねーちゃんの、バカ!ねーちゃんなんて、だいっきらいだ‼︎」
 と言ってしまった。
 ねーちゃんは、びっくりした様子でぼくを見ていた。お母さんが、なに、どーしたの?と、洗面所の方から聞いてくる。
 ぼくははっと気がつく。
 なんだか胸のあたりに、ぶわっと黒いものが出てきたようだった。ねーちゃんは最初、なんでぼくが怒ったのか、分からなかったようだった。けど、それから、あ、と言って、イチゴを見つめてから、眉毛を下げて、ごめんね、と言ってきた。ちがう。そんな風に、言ってほしかったんじゃなくて……。ぼくは、なんだか分からなくなって、ソファーの脇のランドセルをひっつかんで家を飛び出した。いつもは言っている、行ってきます、も言わないまま。
 飛び出したそのままの速さで走って、一緒に学校に行っている、近所の友だちとの待ち合わせ場所に着く。団地の間にある、色んな遊具がある公園だった。急いで走ってきたぼくを見て、友だちはちょっとびっくりしたようだった。公園の中央に立っている、銀色の鳥が止まった時計をちらりと見て言う。
「まだ時間あるよ?どうしたんだよ翔太」
「何でもないよ」
 元気がなさそうな顔はできるだけかくしておく。
「そうかなあ」
 友だちは気にしていたけど、ぼくはずんずんと進む。

 1時間目の授業は国語だった。
 教科書に載っているお話を読んで、出てくる漢字の読み書きと、主人公の男の子が、このときどういう気持ちだったか、と考えて答えを書くプリントを先生から配られる。
 朝のことが、頭の中をぐるぐるぐるぐる、ずーっとかけまわっていた。初めて、ねーちゃんにひどい事を言ってしまった。そのとき見た、ねーちゃんの顔が頭からはなれない。ごめんね、と言ったときの、かなしそうな顔。ぶんぶん頭を振ってみても、ぽーんとどこかに飛んでいってはくれなかった。図工の時間に使う、黄色いボンドでしっかりくっつけてしまったみたいに。
 あんまり考えていたものだから、班になって答えをみんなで話し合う時も、発表をする時もぼーっとしてしまった。何回か先生に注意された。あと、朝ごはんを食べてこなかったせいで、お昼までお腹はぐうーと鳴って、隣の席の友だちに笑われた。
 学校が終わるまで、ぐるぐるした気持ちはずーーっと変わらなくて、友だちが大丈夫かぁ、とお昼休みにサッカーに誘ってくれた。その間だけは一生けんめいボールを追いかけてたから忘れた。でも帰る時にはまた思いだしてた。

 じゃあなー、と言って、友だちと交差点の所で別れる。ここから家までは歩いて5分くらいだ。かえろう、と足を踏みだそうとした所で、ぴた、と止まる。
 ねーちゃんに、何て言おう。
 今日、ねーちゃんはバイトが休みで、うちにいる。家に入ったら、たぶん顔をあわせることになる。ぷいと知らない様子で、何も言わずに自分の部屋まで行くのは気持ちがわるい。夕ごはんのときには会うことになるし。だけど、ぼくは、なんと言って入ったらよいんだろうか。ごめんなさいって、あやまればいいのかな。それでいいのだろうか。上手くできたら、テストや宿題の問題みたいに、先生が赤丸をつけてくれるものなんだろうか。
 ぼくはどうしたらいいのか、1日たっても分からないままだった。算数や理科よりも、ずっとずっとむずかしく思えた。そうして、うんうん言いながらしばらくそこで考えて、ぱっと思いついた。
ずいぶん前に、ねーちゃんと一緒に行った駄菓子屋さん。学校のことで忙しくなって、なんとなく行かなくなったお店。ねーちゃんが、「お父さんがよく連れていってくれたんだよ」と教えてくれた、昔からあるところ。ねーちゃんはそこで売ってる板チョコが好きで、行くと毎回買っていた。

 ねーちゃん、喜んでくれるかな。
 ごめんって言って、渡そうか。

 そんな考えが浮かんできて、ぼくは家とは反対方向に歩き出す。ランドセルの中には、小さなお財布があった。たまーに、友だちと一緒にお店に寄ったり、ガチャポンをする用にこっそり入れてあるのだ。ちなみに、お母さんやねーちゃんにはひみつにしている。たぶんおこられるから。ぼくはお店が閉まらないようにと、走って駅に向かった。

 となりのとなりの、そのまたとなり。
 遠くに出かける時ぐらいにしか乗らないから、時間通りにやってきた電車に、ぼくはちょっとわくわくした。入り口近くの席に座ってる、小さい子を連れたお母さんをちらっと見て、眠っているおじさんの隣に座る。がたごとと音を立てながら、ゆっくりと電車は走り出す。電線や色とりどりの屋根が流れていく。
 降りたのは、ぼくの住んでいる町の駅より、ちょっと小さな駅だった。周りには、コンビニ1つと、クリーニング屋さんと、小さな美容室があって、ほかは一軒家が並んでるところだった。ぼくは昔の思い出をたよりに歩き出した。たしか、こっちに青い屋根の家があって、信号と、庭の広い家と郵便ポストがあって……と、覚えていることをつぎはぎにしながら進む。前に行ったのは、たしかぼくが、幼稚園生くらいの時だ。あのときよりも、見えるものは多くなってた。あと、ねーちゃんがしっかり手をつないでくれてて、たのもしくみえたのも、覚えてる。

 そうして、ぼくはどうにか駄菓子屋さんにたどり着いた。古びて日に焼けた看板には、うすくなった文字で『やくさ商店』と書かれている。木造のお家で、出入り口の前には、アイスの入った小さなケースと、おもちゃの下がったカゴがぶら下げてある。木でできた、白っぽいガラスの付いたドアを、ぼくはがらがらと引いて開ける。
 中にはお菓子がたくさん並べてあった。プラスチックの透明なケースに、せんべいや、棒つきの飴が入ってるし、棚のカゴにはいろんなチョコや水飴やスナック菓子かなんかが入れて置いてある。なぜか、金魚の形をしたジョウロもある。きょろきょろ見回してると、いらっしゃい、と、優しそうな声が出迎えてくれた。前に会った時と変わらない見た目をした、おばあちゃんだった。グレーと白色の混じった髪をひとつにまとめて、棒のようなものをさしてある。うぐいすみたいな黄緑のトレーナーと、さくら色のエプロンをしてる。お餅みたいにほっぺたは下がってて、いつでもにっこり笑った顔をしていた。あの、とぼくは声をかける。
「板チョコ、ありますか」
「チョコレートかい」
 おばあちゃんは、かけている丸めがねをくい、と上げる。
「それなら、あそこだよ」
 おばあちゃんがしわくちゃの指で教えてくれた先に、絵は違うけれど、同じ名前のチョコがあった。ぼくは、よかった、とほっとする。1枚手にとって、それから少し迷って、2枚持ってレジにいく。
 お金を払ったあとに、
「ありがとうございます」
 ぼくは頭を下げる。
「はい、ありがとう」
 おばあちゃんも、ぺこりと頭を下げる。
 気をつけて帰るんだよ、とおばあちゃんは言ってくれて、ぼくは手を振ってお店を出た。お目当てのものが買えて、ぼくは満足してた。ちょっとスキップなんかしてみる。あとは、帰るだけ。けど、気を抜いちゃいけなかった。
 あれ、とぼくは立ち止まる。
 今、ぼくがどこにいるかはぜんぜん分からない状態になっていた。知らない道、知らないお店。信号とか、看板とか、見たことがあるものなのに、全くちがって見える。ここはどこなんだろう。だんだん怖くなってきて、ぼくの知ってるものを見つけたくて、むちゃくちゃに歩いた。どんどん進む。進んでいるのに、見つからない。怖くなって引き返す。だけど駅までの道さえも、ぼくは分からなくなっていた。
 途中、見慣れないマークの、たぶん電車の駅の看板を見つけた。のぞいてみると、下に続く階段がある。ひゅうと、風が吹く。暗い所に続いている階段は、知らない場所につながっていそうで、ぼくは見なかった事にした。行き先の路線図を見てみてもちんぷんかんぷんだし、お財布を見てみたけど、電車やバスに乗るお金はなくなっていた。それに、あったとしても、どれが家の近くまで行くものなのかは分からなかった。反対方向のものに乗ってしまったら、それこそ家からさらに遠ざかってしまうかもしれないのだ。
 疲れてしまって、バス停の脇にあるベンチに座ったら、なんだか涙が出てきた。がんばってこらえるけれど、ぼろぼろ出てきてしまう。ひざの上に置いた、白い小さなビニール袋に入ったチョコレートを見ていると、お母さん、ねーちゃんの顔がぷかりと浮かんでくる。お母さんに持っていきなさい、と言われているハンカチは、今日に限ってポケットに入れてない。いや、いつも入れてないや。今すごく欲しいけど、ティッシュも持っていないから、パーカーの袖でがしがしと拭く。鼻をこすってしまったせいか、ひりひりと痛くなる。次から次へと涙は出てきて、止まらない。
 ぐしゃぐしゃでぼやけてしまったぼくの目の前に、誰かがやってきた。見慣れない、焦げ茶色のスニーカーと、真っ青なズボン。
「どうしたの?」
 やわらかい声がして、ぼくは顔を上げる。

***

 翔太がいない。
 帰って来たお母さんに、そう伝える。

 最初は、夕方になって、洗濯物を取り込んでいた時。ニュースのグルメ特集が始まった頃に気づいた。いつもなら、翔太が帰ってきているはずの時間。だけど、姿は見えない。友達と公園にでも遊びに行ったかな、と思っていたが、暗くなって、夕ご飯の時間になっても帰ってこない。学校は3時ごろには終わっていて、夕方には遅くとも家に着いているはずだった。

 これは、おかしい。
 居ても立っても居られなくなって、家を飛び出し、心当たりのある場所を探してみる。学校にも、よく行くスーパーにもいない。家の中を探し回ったが、ランドセルも置かれていない。どこかに行ってしまっているのだけども、見当がつかない。

 数週間前の、事故に遭いそうになった状況が思い出される。
 また。前のような事があったら。
 そんな考えが頭をよぎり、かき消すように首を振る。

 今回のことは、夢では見なかった。

 口の中が乾いた状態で、今分かっていることを伝える。私も探してみる、とお母さんは言って、翔太の友達の家やご近所さんに電話をかけ始めた。頭の中でぐるぐると思考が掻き回される。どうしたら良い、と呆然としていると、ある事を思いつく。私は自室に行って、ドアを閉める。そうして、真新しい登録名に電話をかける。7コール目くらいで相手が出た。
「はい」
「もしもし、上町⁉︎」
「もしもし。なんですか」
「弟が、翔太がいないの……!どこにいるか、わかんなくて。それで、もし上町が「見て」いたら、何か分かるかな、と思って……」
「で、協力しろと」
「いま、色々心当たりのある場所は探しているんだけど、前に、事故に遭いそうになった事があって……心配なの」
「………」
 返答はない。
「……見ていたら、でいいの。もし、だけども。でも、知ってたら……お願い」
 暫くの間がある。はあ、と、ため息をついて、それから息を吸う音が聞こえた。
「弟、どんな格好してますか?」
 返答に、私は縋るように伝える。
「オレンジ色のパーカーに、深緑のズボンを履いてて、赤と白のスニーカーで…髪は焦げ茶色でぼさぼさしてて、鼻のあたりにそばかすがある…」
「ああ。たしか、見ました。それ」
 私は、息を呑む。
「え、どんな所にいたか分かる⁉︎」
「どこかの公園で、誰かと一緒にいました」
「その誰かって、誰よ⁉︎」
「そこが分からないんですよ。身長的に大人ではありましたが、顔の部分が、ぼんやりと影みたいになっていて。あまりに不確かだから、誰とは特定できない」
「それ早く言ってよ!」
「教えた人に対してそれはないんじゃないですか」
「ごめんって!でも、他には何か見てない⁉︎」
「あとは、近くに時計のある公園がありました。鳥が数羽停まっているデザインの、銀色の背の高い時計が、公園の中央に」
 私は、すらすらと出てくる情報をありがたく思っていた。私自身は、見ていたとしても細かな所は思い出せない。
「他には……例えば、遊具とかは?」
「ブランコと、ジャングルジムですかね。ブランコは、青い柱に、座る部分が赤。乗る所は2つ。ジャングルジムは、上から赤と緑と黄色」
 ん?と私はある場所が思い当たる。
「ほかに、近くに何があった?」
「マンション3棟。団地ですかね」
「やっぱり」
「どうしました」
 それは、たぶん。
「もしかしたら、あそこかもしれない」
「心当たりありますか?」
「ええ。家の、近所にあるーー」
 どういうことだ?
 ともかく、行ってみるしかない。

 上町に、また連絡すると伝え、通話を切った数分後。別の誰かから、電話がかかってきた。久しぶりに見た少し懐かしい名前に、戸惑いながらも通話ボタンを押す。
「もしもし。お久し振りです」
 穏やかな、子供と大人の中間のような声だった。
「芝丘公園まで、来てください。弟さんが待ってます」
 私は訳がわからなかったが、迷っている暇はないと思った。お母さんに向かう先を伝え、スマートフォンだけ持って家を飛び出した。

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