外に出てみると、藍色が殆どを占めた空には星が瞬きはじめていた。朝の、怒った様子の翔太。きっと、パンケーキ楽しみにしてたんだろうな、と思い返す。すっかり忘れてしまっていたことに、申し訳なさが募る。まだ、怒ってるだろうか、どうだろうか。そんなことを考えながら、私は急いで目的の場所へと向かった。
上町に言われた公園に着いてみて、与えられた情報の正確さに私は驚いた。聞いていた場所の特徴は、ひとつも外れていなかった。周辺も、時計も、ブランコの色までも。
それは、怖いくらいに合っていた。
私は頭を掠めた感情を振り払って、公園内を探した。
ひっそりとした公園の片隅、ブランコのところに、人影を見つけた。小さい影と、大きい影。近寄ってみると、小さい方の人影が、ばっとこちらを振り向いた。
それは、翔太だった。
「翔太!」
「ねーちゃん」
安心したのか、翔太はぼろぼろ涙を流して、顔をぐしゃぐしゃにしていた。私は翔太の肩に手を置いて言う。
「もう、本当に心配したんだよ⁉︎」
「ねーちゃん、ほんとに、ごめんなさい」
しゃがんで顔を見てみると、涙と鼻水が混ざって、もう何が何だか。とりあえず、持ってきておいたタオルを渡す。翔太は受け取って、鼻をかむ。いや、そこは涙を拭きなさい。
「倉阪先輩」
私は顔を上げて、声の主を見る。傍らに立っていた影。私に電話をかけ、翔太に付き添ってくれた人。灰色がかった髪と目、困った様子の太眉。着ていた白いシャツと青いズボンも相まって、空や水の雰囲気を纏ったような人だと思った。出会った当時と全く印象は変わっていなかった。
「水瀬くん」
大学生のとき、サークルの後輩だったーーー水瀬啓くんだった。
「どうして、ここに?」
「今日、大学の友人と会っていて。その帰りだったんです。バス停で泣いてる子がいたので、声を掛けて。話を聞いてみたら、まさか倉阪先輩の弟さんだったとは」
水瀬くんは、透き通るような、淡い色を含んだ目でそう言った。
彼は、私が通っていた大学の、恐らくは上位に登る頭の良さを誇る医学部のひとだった。私が息を切らしながら必死に勉強して入った大学に、現役で医学部に入学したというのだから、頭の作りが違うのでは……と密かに考えている。
ただ見た目のせいなのか、気弱や病弱なイメージを人から持たれやすいそうで、よく人からイジられる。というより大体の事を笑って許す面があって、それに甘えたりつけこんだりして、まあ、なんだかんだ愛されている感じの人だ。
「迷子になっていたようだったので、最寄りの駅を教えてもらって、ここまで来たんです。無事に会えて、良かったです」
「そうだったの…ありがとう、水瀬くん」
ほら、翔太もお礼言いなさい、と促すと、ありがとうございました、と鼻水をすすりながら言った。
水瀬くんは、どういたしまして、と少し目を細めて返答した。
「そういえば、先輩の家、この近くなんですか?」
「え?まあ、そうだね。ここから5分くらいかな」
「最近、父と隣駅に引っ越してきたんです。もし、また会う事があったらよろしくお願い致します」
そう言って、丁寧にお辞儀をして帰っていった。
見送った後、あ、と翔太は思い出したように声をあげた。
「なに、何かあった?」
「……ねーちゃん、これ!」
白いビニール袋を持った手を、私に突き出す。ちょっと気まずそうな顔をして。受け取って、公園にぽつぽつと点いた薄明かりを頼りに中を見てみると、板チョコが2枚。昔よく買っていたお菓子だった。
「どうしたの、これ」
私はしゃがんで、翔太と目線を合わせる。
明かりに照らされて、青みを帯びた影と黄色味の光が混じる中でも、目と鼻が赤くなっていて、涙の跡も微かに残っているのが見えた。
「朝のこと。ごめんなさい」
と、はっきりとした声で言われた。
「もしかして、これを買いに行ってたの?」
こく、と翔太は頷く。ふっと、肩の力が抜ける。
「ばかだなあ」
嬉しいような恥ずかしいような、なんだかくすぐったい心地になって笑いかけてしまう。ごまかすように、私はがしがしと、片手でめいっぱい頭を撫でる。やめろよ、と翔太は言ったけど、やめなかった。翔太からも仕返しに、頭をがしがしと撫でられる。細い髪の毛が、明かりに照らされてきらきら光った。お互いにひどいぼさぼさ頭になってしまって、なんだかおかしくなって笑ってしまった。
「私も、ごめん。パンケーキ。すっかり忘れてた」
「あんなに嬉しそうに買ってきてたのに、ふつー忘れないよ」
「冷蔵庫の奥にやっちゃってたから、忘れちゃったのよ」
「雑だなー、ねーちゃん」
「うっさいなっ」
翔太はからかって笑う。いつも通りの顔になって、私はなんだか安心する。さて、と私は立ち上がる。
「じゃ、そろそろ帰ろうか」
「お母さん、怒ってるかな」
「そりゃあもう」
「うげ。どうしよう」
翔太は苦い顔をする。何度も歩いた道だけど、並んで一緒に帰る家までの時間は、なんだか心地が良かった。
その後、翔太はお母さんにこっぴどく叱られたが、私はまあまあ、と仲裁に入り、3人でチョコレートを分けて食べた。
久しぶりに食べたチョコは、ちょっと違った味をしていたけど、まろやかな甘さは変わっておらず、美味しかった。
今度こそパンケーキ作ってよ、と言う翔太に、私はじゃあ作るの手伝ってよ、と返す。ちょっと不服そうな顔をしたけど、渋々翔太は了解して、でも楽しみ、と言った。
遅めの夕飯を食べ終えて、自室に戻る。そうだ、と思い立ち上町に電話をかける。今度は5コール目で出た。
「もしもし」
「はい、どうしました?」
「翔太、私の後輩が見つけて送り届けてくれたよ。家近くの公園まで」
「ああ、そうだったんですね。良かったです」
「偶然、通りかかったみたいで。助かったよ…。上町も、ありがとう」
「どういたしまして」
棒読みの返し。ちょっと意地悪を言ってみたくなって、仕掛けてみる。
「上町も、佐々木くんとか、さっき会ったけど、水瀬くんくらい愛想良くしたらどうなのよ」
悪態ついてくるだろうと思っていたが、答えが返ってこない。押し黙ってしまった。不安になって、問いかける。
「え、上町?」
「今、誰と誰って言いました?」
「佐々木くんと、水瀬くん?」
「もしかして。水瀬啓ですか」
突然名前を当てられて、私はたじろぐ。
「そうだけど、なんで知っているの?」
はあ、と電話越しにため息が聞こえる。
「言いたくもありません」
「待ってよ、自分だけで納得しないでよ。知り合いなの?」
「まあ」
「友達なの?」
「いいえ。今はもう、他人です」
他人、と表したことに、拒絶を感じた。
じゃあこれで、と、早急に電話は切られた。待ち受け画面を表示したスマートフォンを膝元に置き、強制的に終わらせられた会話を、自分の頭の中でもう一度再生してみる。一階から、テレビから流れる賑やかな音が微かに聞こえてくる。私は部屋でひとり、天井を仰ぎ見る。
友達を、他人と言う。
透き通る無色のような水瀬くんと、鮮やかな色合いの上町。2人が一緒にいた時があったのか。なんだか不釣り合いだと、そこまで考えてみて、ベッドに倒れこむ。なんだかとても疲れていた。探し回ったせいだろうかと、うとうと考えながら、私はふっと目を閉じた。
***
通話を切ってから、やっぱりな、と1人納得をした。
水瀬。
忘れかけていた名前だった。
手に持っていたスマートフォンを、ベッドに投げる。布団に着地して、埋もれて見えなくなる。倉阪には伝えなかったが、おぼろげな形では夢で見ていた。薄い髪の色と、真っ直ぐな眼差し。誘拐犯などあり得ない。大方、迷子になっていた倉阪弟を送り届けたんだろう。そう容易に想像できた。だが、倉阪と水瀬に接点があったとは。今後会うことになるかもしれない可能性があると知って、頭を掻く。
正直、顔は合わせづらい。
先ほど、知り合いだった、とつい言ってしまったことに後悔する。余計な情報を伝えてしまった。
ベッドに倒れこんで、天井を仰ぎ見る。水瀬を思い出すと、小さい頃の記憶がどうしても引きずられて出てくる。
まだ、あいつがいた頃のこと。
仲が良くて、色んな場所で遊びまわったこと。
そして、3人が2人になった日のこと。
忘れる事ができずに、未だに捕らわれていることに気づかされる。くそ、と1人呟く。もう乗り越えたつもりだったが、今でも思い出すということは、相当自分の中では根深い問題のようだった。
たぶん、また会うことになる。その時、どんな顔をして会えばよいか。
かけてくれた言葉を受け止めず、跳ね除けてしまった自分は、今更何を言えば良いのか。
そんな事を考えながら、瞼は重くなる。堪えきれず、引きずられるように眠りに落ちる。
***
ふと、目が覚めたら、
眩しい程に白い部屋で。
自分は椅子に座っている。
目の前にある、1人には大きすぎる白木のダイニングテーブルの上には、紙で作られた広大な街の模型があった。通っている大学から、少し遠くの大学病院まで。ただ、全てが白い。淡い灰色の影が、建物や木々の形をかろうじて見せている。周りには誰もいない。
また、と言いかけた所で、何者かの気配を感じた。
机上の街並みの向こう側から、砂を擦る音が聞こえてきて、ぴたりと止む。白い世界で目につく、鮮やかな色。
その人は、
「こんばんは」
*は、微笑んでそう言った。