花は落ちず

 聞き慣れない地名のアナウンスが流れる。久しぶりに感じる車の振動の中、座席の右手前にあるボタンを押すと、車内のランプが一斉に点灯した。緩急をつけながらスピードは変化する。住宅街から少し離れた、通りに面する一角に目的地はあった。長らく定期券の機能しか果たしていなかったカードをかざして、運転手にお礼を言いバスを降りる。
 中小企業の事務所や、昔ながらの商店が入ったビルがいくつか並ぶ通りだった。白い四角形のコンクリートには、無数の窓が等間隔に並んでいる。年季の入った建物のようで、所々壁の汚れが目立つ。僕はお見舞い用の菓子が入った紙袋を提げ、その建物を目指して木漏れ日の中を歩き出す。

***

 音もなく、するりとドアが開く。消毒液の清潔な匂いが出迎えて、白っぽい室内が目に入る。どこかひんやりとした心地の無機質な白色だ。6人ほどの相部屋、思い思いに時間を過ごしている昼下がりの午後。開け放した窓からは時折少し強めの風が吹き込んで、部屋にあるいくつもの薄黄色のカーテンをはためかせた。
 窓側のベッドの上、紺色のくせっ毛頭で細身の男性を見つける。少しだけ猫背の後ろ姿は見慣れたものだった。男性は私の気配に気付いたのか、不意に振り返る。そして、笑う。
「倉ちゃん、こっちこっち」
 嬉しそうに手招きしてそう言う。

 ここは一般病棟の3階。窓の外には清々しいくらいの青い空が広がる。ぷかりと浮かぶ綿のような雲。中庭の樹、鮮やかな葉の色が翻って黄緑色の波がうねる。

 高梨さんは、夢と同じ位置でそこに居た。

 私はそれに気付き、一瞬びくりと身体を震わせる。けれど数秒後には何でもないように装って、一歩踏み出す。大丈夫、きっと気のせい、と言い聞かせて。
「怪我の具合はどうですか?」
「全治2週間だって。じっとしてなさいって看護師さんに言われたけど、退屈だよねぇ」
 高梨さんは口をへの字にして、包帯で固定された脚をぺちぺちと叩く。事故の後、高梨さんは崖下の木々に引っかかっているのが救助隊により発見された。左脚は骨折してしまったが、ほかに目立った外傷はなく、切り傷や擦り傷はあったが軽度なものだったという。あの高さから落ちて助かった事に、私は、良かったと安堵した。そして、歯がゆさを感じていた。ベッドの脇にある小ぶりな丸椅子に腰掛けると、金属の軋む音が鳴った。私は膝の上で、ぎゅっと手を握りしめて言う。高梨さんの目を見ようとしたが、視線は首元あたりで上げるのを止めてしまった。
「…すみません、私があの時、手を掴んでいれば」
「そんな、倉ちゃんが気にすることじゃないよ!崖から落ちたのは俺の不注意だし」
 気落ちした様子の私を気遣ってか、ぶんぶん手を振って高梨さんはそう言った。私の顔は情けない事になっていたに違いない。鏡で見た訳ではなかったが、高梨さんの様子を見るにそうだったのだろう。涙こそ出はしなかったけれど、じりじりと体の奥からせり上がってくるような、悔しさとも悲しさとも取れない感情があって、私は唇を噛み締めて耐えていた。予め分かっていた事柄を変えられなかった無力さに、やるせなさを感じる。心配させないように、私はその時作れる精一杯の笑顔で、ありがとうございます、と返した。

 廊下に出ると、上町が向かいの壁の手すりに寄りかかっていた。どこでもなく見ていた視線を私に合わせ、部屋から出てきたのを確認すると、組んでいた腕を解く。そうして何も言わず、立ち上がって歩き始める。私は何か言いかけて、言葉の形にすら成れない空気を飲み込む。

 上町は*から事情を聞いたらしい。

 らしい、というのは、向こうから珍しく電話を寄越してきたからだった。私から上町に伝えた覚えはない。消去法で考えてすぐに見当はついた。高梨さんの事故後、慌てていた私はろくに連絡が出来なかった。やっとの思いで家に帰り、しばらく自分の部屋でぼんやりとしていた夜、何度目かの着信で私は出た。

「あんたの上司。どこに入院している?」
 静かな声で聞かれたのは、必要最低限の問いだった。

 いつの日か私がやったみたいに、上町は病院の前で私を待っていて、律儀にもお見舞いの品を持ってきたみたいだった。カラフルな色の服にシンプルな百貨店の白の紙袋が、なんだかちぐはぐな印象を受けた。私は上町に向かって手を振る。少し面倒そうな顔を向けたが、肩くらいの高さまでは片手を上げて答えてくれた。

 けれど、それ以降今日は目を合わせてはくれない。
 自分から聞いてやって来たくせに、上町は今日会ってから今まで殆ど話していない。お見舞いの品を私に手渡した時も「これ」としか言わなかった。
 スニーカーと、私のヒールの低いパンプスの足音が続く。何度か看護師さん、医者に会い、軽く会釈をする。足元の床は微かな人影と、室内の蛍光灯の光を映す。そして時々、窓から届くひし形に切り取られた日の光。連なっては切れて、また続く。

 私は上町の背中をそっと見てみる。どんな表情をしているかは分からない。ゆらゆらと一定のリズムで揺れながら進む背中。端々のなんともないような、けれど答えてはくれる姿勢に、私はふわりとした心地で考えを探る。

 彼なりに気を遣っているのだろうか。

 ぼんやりと考え事をしていたからか、不意に横道から出てきた人影を避けきれなくて、ぶつかってしまった。
 その拍子に、相手の持っていた草花が足元に落ちる。
「わ、ごめん!…怪我はない?」
 私はぶつかってしまった相手…女の子に優しく聞いてみる。
うずくまっていた女の子は、黒目がちの大きな瞳を私に向ける。長いまつ毛を瞬かせて、ばちりと目が合う。年は翔太と同じくらいだろうか。髪は紫がかった黒色で、耳の脇あたりで白いリボンを使い、おさげにしている。まとめられてはいるが腰くらいの長さまである髪をふるりと振って、だいじょうぶです、と小さな口を微かに動かして女の子は答える。それから急いで足元に散らばった花を拾い集め始めた。幾分か体より大きいパジャマの袖口からは小さな手が出ていて、せっせと落ちた花を拾っていく。私も花をいくつか拾い上げて渡す。タンポポやナズナ、オオイヌノフグリなど。小さい頃によく見た草花たちだ。小ぶりの花達で手をいっぱいにした女の子は、すみませんでした、とぺこりとお辞儀をすると、また忙しく走り出して廊下の向こうに消えてしまった。
 スリッパを履いているのに、器用に走るなあと思った。嵐のように過ぎてしまった女の子を見届けた後、ふと辺りを見回してみると、先に歩いていたはずの上町の姿はなくなっていた。
 あれ、何処に行ったんだ?
 私は困って、一歩踏み出す。すると。
 何か黄色いものが視界の端に入った。視線を落とすと、そこにあったのは小さなタンポポの花だった。
 さっきの女の子の落とし物だろうか。
 私は花を拾い上げる。足は自然と女の子の消えた先に向かっていた。

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