とりあえず席を勧め、お茶を用意する。私はテレビ前のソファー席、*は庭を眺める席にそれぞれ座る。目の前にある、膝くらいの高さのテーブルに湯のみを置くと、ありがとうございますとお礼を言われる。何処から入ってきたんだとか、家族が誰もいない時間帯で良かったとか、色々な考えがごちゃついて頭の中で暴れ出しそう。
 時折近所のおばさんの話し声や、バイクの通り過ぎる走行音が外から聞こえる。日常の音が聞こえるのに、家の中だけか違う場所になってしまったみたいだった。以前喫茶店でも話をしたが、家の中にいる*の姿は異質でしかなかった。何というか、浮いて見える。上手く周りの風景と馴染まないような、そんな気がした。自分の家に突然現れたから、そう感じるのかもしれないけれど……。
 そんな考えを巡らせる私をよそに、涼しい顔で*は話しかけてきた。
「先程、話していた件。電話の相手は上町君ですね」
「なんで知ってるの」
「貴方にとって、夢の話が通じる相手は限られるでしょう?」
 *はお茶を一口飲む。私はばつの悪い顔をする。
 少なくとも通話の内容は聞かれていたらしい。
 いけない、ペースに乗せられては。頭の中で言い聞かせて、私は質問を投げかける。
「さっき、あなたは知りたいか、と聞いたわね。それはどういう事?」
 *は手に持っていた湯のみを置いて、こちらに向き直る。
「私の知る限りですがーーー貴方の上司である高梨さん。ここから程近い山中で事故に遭い、入院するほどの怪我を負う」
 私は目を見開く。

 なぜ、高梨さんが事故に遭う場所を知っている?
 驚きと共に、疑問が渦を巻く。

「……私が見た、夢の中の病室。あなたも見ていたの?」
 探るように言葉を選ぶ。あの部屋、いや、病院の何処にも。
 私と、高梨さん以外は居なかったように思えた。
「いいえ、それは見ていません」
 真っ黒な瞳には揺らぎがない。
 本当か、嘘か。駆け引きのような会話が続く。
「どうして、あなたは高梨さんが事故に遭うと言い切れるの?」
 疑いを持つ一方、納得する自分もいて、自分自身に戸惑う。あの夢はやはり何かが起こる事の暗示だった、と思いつつも、そうであってほしくないという思いもあった。そもそも、*の言う事が確実に当たっているという保証もない。私は多分、自分が思うよりも動揺している。*は両手を膝の上で組み、返答する。
「今回は傍らで見届けていましてね。断片的な情報ではありますが、彼が何がしかの事態に巻き込まれると示唆する夢を見ました。これまでの経験上、ほぼ事故は起きると言っても良いでしょう」
「今までにも、見た事があるの」
「ええ、何回かは。当事者ではありませんが」
「当事者じゃない?」
「私の夢で見たものではないので」
 私の、夢ではない?どこか距離を置いた返答の違和感に引っかかる。思い当たる人物は、あいつしかいない。
「まさか、上町の」
 そう、と短めの了承が返ってくる。
 *は湯のみを脇に寄せて、何処からか持ってきたこの地域周辺の地図をテーブル上に広げる。ぴんと伸ばされた、細長い人差し指はある場所を指す。そこには「矢白山(やしろやま)」と書いてある。昔中学校の校外学習で行ったことのある、馴染み深い山だった。
「山の規模は大きくありません。観光地として季節の花々や紅葉の様子が見られると、沿線の広告等で紹介されているそうですね。見る限り標高も高くないですし、ハイキングに行く程度の格好で良いでしょう」
「あなた、今回やけに協力的なのね」
「以前からそうだったでしょう?」
 *はにこりと笑う。わずかに上げられる口角、細められる瞳。相変わらず笑っているのに、それが好意から来るものなのか確信が持てない。どこか他所から借りてきたような、絵に描いたような笑顔なのだ。私は*を信頼出来ずにいた。第一、初めて会った時に言われた事が衝撃的であったし、丁寧な物腰で伝えられた割に乱暴な出来事だった。
 けれど現状、手掛かりはこれしかない。悔しいがそれは事実だった。
「日は明日、時間帯は、恐らくは午後。昼過ぎから夕方くらいまでの間ですね。木々が開けた山の中腹辺りにいて、高梨さんは何かを守っている様子でした」
 半信半疑のまま私は頷く。
「その、守っている何かって何」
「さあ。それは私にも分かりません。残念ながら」
 *は微笑を崩さない。
「まあ、本来は上町君から伝えるべき事柄ですし、こうして私がここに来るべきでもないでしょう」
「じゃあ、何故」
「ただの気まぐれです」
 首をゆらりと傾げ、おどけた様子でそう言う。
 演技なのか、本心なのか。芝居がかった動きはどちらなのか見当がつかない。
 *は広げていた地図を丁寧に畳み、ベスト裏のポケットに仕舞う。さて、と立ち上がる。
「じゃあ、私はそろそろ」
「待って」
 私は引き止める。*は何も言わずに視線をこちらに寄越す。長い睫毛が瞬く。
「あなたに、聞きたいことがあるの」
「何でしょう」
「前に、上町と知り合いだって言ってたわよね。でも、本人に聞いてみたら知らない、と言っていたのよ。どういうこと?」
「上町君に、私の事をどう伝えましたか」
「え、そのままよ。黒髪で、後ろで一つ結びにしていて、白シャツの上にベストを着て……」
 私は上町に伝えた、彼自身の外見の特徴を挙げていく。ふむ、と*は頷きながら聞いている。私が言い終えると、ひと息ついて返答が来る。
「教えていただき感謝致します。確かに、私と上町君は知り合いです。しかし、貴方との認識が違うようですね」
 私が言葉の意味を測りかねていると、
「貴方も、上町君も。間違っていない」
 重ねて言う。そうである事を、自分にも言い聞かせるかのように。けれど、発言の意味がまるで分からない。
 加えて、どうしてだか。少し寂しそうな目をして言ったのが気がかりだった。幾分か柔らかく笑んで続ける。
「分かりますよ。いつか、きっと」
 どこか確信めいた言い方。
「それは、」
 と聞き返す所で。

 何かが落ちる音がした。

 振り向くと、庭の洗濯物が一着、地面にあった。緑色の芝生に一点、赤いトレーナー。くしゃくしゃになってしまっている。風に吹かれてしまったのだろうか。
 一拍遅れて、前と同じ事があった気がしてリビングに顔を向ける。やはり*はいなくなっていた。冷めたお茶が入った湯のみが、テーブルの上にあるだけだった。お茶の量は減っていない。リビングから廊下に通じるドアの音はせず、足音は何もしなかった。数秒の間を置いてまたしても消え、翻弄されて終わってしまった。夢でも見たみたいだと思った。ため息をつきながらも、私は教えてもらった山の名前を頭に思い浮かべた。忘れないよう電話機の脇のメモ帳に書き留めた。

***

 快晴のお天気。踏みしめた小枝が、ぱきりと音を立てて割れる。
 歩き慣れない山道の中、私は登っていく。ちらちらと木漏れ日が地面を照らして、時折葉の隙間から白い光が視界の端を刺す。後ろでひとつにまとめた髪が、歩くリズムに合わせて揺れる。登り始めてからずっと歩き通しだったので、道端にあった少し大きめの岩に腰掛けて少しの間休憩する。
 ペットボトルの水をぐいと飲み、身体に水分が染みていく。お母さんから借りた登山用の靴は大仰かと思ったが、疲れにくく正解だったと思った。*から山の中腹、開けた場所と聞いていたが、詳しい位置は聞いていなかった。途中すれ違った男性に尋ねたところ、見晴らしの良い場所があると教えてくれた。ひと息ついて、立ち上がってまた歩き出す。山道を登り、途中からやや勾配のきつい坂道を歩くルートを選ぶ。
 木の根っこがうねりながらも飛び出している所が多く、何度かつまづきそうになりながらも進む。腕時計を見て、時間を確認する。12時過ぎ。額の汗を拭って私は突き進む。事故が起きる時間帯は、はっきりとは分からない。だから一刻も早く目的地に着きたかった。
 やがて、左右から伸びる枝が少なくなっていく。眩しい日差しに目を細めると、青い空が視界いっぱいに広がった。

 そこは少し開けた崖だった。見晴らしが良く、麓の街並みが眼下に広がる。手前には住宅地が広がり、少し遠くの方に高層ビル群が見える。線路は奥から左手へ、私が居る山とは違う方へと伸びている。おもちゃみたいな大きさの電車や車が走る。
 景色の良い場所であるのに、あまり人気はない。ハイキングのルートからは少し外れており、穴場のようだ。あたりを見回してみると、崖の縁に立つ人影を見つけた。どこか見覚えのある、癖のある黒髪に、背の高い男性。期待と否定を半分ずつ持っていた私は、嬉しさと人違いである期待を織り交ぜた気持ちのまま話しかける。

「高梨さん?」

 反応がない。
 聞こえなかったのだろうかと思い、もう一度呼びかけようとした所でーーー何やら空を見上げながら、しきりに手を動かしている。
 おそるおそる近付いてみると、何か呟いているのが聞こえる。
 私は、肩を軽く叩いてみる。相手は勢いよく振り返る。
「おわっ⁉︎く、倉ちゃん‼︎」
「ど、どうも。こんにちは」
 驚きすぎて、危うくよろめきそうになった。私もつられて驚いてしまう。高梨さんは目をぱちぱちさせて言う。
「倉ちゃん、どうしてここに?」
「どこか自然の多い所に行きたいなと前々から思ってて。思い立ってハイキングに来てみたんです。のんびり登ってたら、道に迷ってしまって…どこかで休憩しようと思って歩いていたら、ここに辿り着いて」
 とりあえず不信がられないよう、適当な話にしておく。そうなんだ、偶然だなあと高梨さんは頷く。
「高梨さんはどうしてここに?」
「ああ、実はね。ここで何度か、UFOを見たって話を聞いてね!それで、見られたらいいなあと思って来たわけ。しっかり双眼鏡もカメラも用意してきたんだけど、全然来る気配がなくて。この間交流会で会った人に聞いた、新しい型の交信で呼べないかなーと試してた所だったんだ」
「ああ、そうだったんですね」
 UFOがさっきのジェスチャーとやらで呼べるのかはさておき、高梨さんが事故に遭っておらず、私はひとまず安心した。
「俺はしばらくここに居るけど、休憩するんだったら、あそこの少し大きな切り株にでも座ると良いよ」
 と、私たちのいる崖からやや離れた位置にある、木陰になった部分を指差す。
「ありがとうございます」
「そうだ、俺もちょっと休憩しようかな」
 そう言って、高梨さんが傍らの柵に手を掛ける。風雨にさらされ傷んで古くなった、ささくれだらけの柵。私は何だか嫌な予感がした、その数秒後。
 柵は軋んで、バキリと派手な音を立ててあっけなく割れた。支えを失った高梨さんは、体重をかけた方向へ、ふわりと宙に浮かんだ。それが当然だとでも言うように。その先の地面はなく、鬱蒼とした森が数メートル下の地面に広がる。へ、と気のぬけた声が、高梨さんの開けっ放しの口から溢れる。
 私は弾かれるように、夢中で右手を伸ばす。手、服、足、どこだって良い。高梨さんの体重を私一人で支えきれるのかどうかなんて頭になかった。ただ、手を取れれば。
 その後はどうにでもなる。そう思ったのに。

 指は空中を掻いただけで、何も掴めはしなかった。

「高梨さん‼︎」

 頭の中で思った叫びは、今更口を突いて出た。落ちていく。
 重力はどうしてあるんだろうと思った。
 私の視界から外れようとする高梨さんの姿を追って、崖から身を乗り出す。
  枝葉を折る音が崖下から続く。鳥が飛び立つ。落下したはずの場所へ視線を移す。
 姿は見えない、なんで見えない。吸い込まれてしまったように消えてしまった。見回してみても、見つからない。
 先ほどまで会話をしていた事実が嘘のように。
 手をついた地面のざらついた感触、土が爪の間に入り込む。じわりと汗が背中を伝う。風が髪を乱して、草木の青臭さが鼻を掠める。心臓が冷えていく心地がする。   

 私は耐えかねて、あぁ、と絞り出されるように嗚咽を漏らす。
 掴めなかったやり切れなさと、不甲斐なさが混じって、私は泣いた。
 ぼろぼろ涙が溢れて止まらない。
 手の甲に雫が落ち、見える景色が潤んで歪む。

 やけに真っ青な空の日の事だった。

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