きみのことは知っている

 名前を呼ばれた気がした。
 ごうと風が吹いて、サビついて今にも壊れそうな手すりががたがたと鳴った。わたしはビルの屋上に立って、くもり空の下に広がる街並みを見ていた。雲は部屋にたまったホコリみたいな色をしていて、ゆるく吹いた湿っぽい風の中でせきが出た。街の道路には車も人も何もいなくて、ただしいんと静かだった。くもりのせいか、景色自体灰色っぽく見える。わたしはいつまでも変わらない様子の街から目をそらして、ビルを降りようとくるりと振り返る。足のうらで、かわいたコンクリートのタイルがぱきりとわれる。
 屋上のだだっ広い景色の中で、ひとつだけ空に向かってでっぱった四角形が目についた。上には、タンクのようなものがついている。四角形の一面には、重たそうな金属のドアがはめられていて、そこから降りられるかな、と考えて近寄る。そうしてドアノブに手をかけたところでまた声がした。私は屋上を見回す。
 やっぱり誰もいない。
 あちらこちらのひび割れた床からはたくさんの植物や花が生えていて、ちょっとした公園みたいになっていた。ただ、だれかが整えてきれいにしているわけではなくて、何年も放っておかれたような荒れた場所だった。どれも薄茶色で枯れている。
 ぼうぼうに生えた草たちがゆれる。その中で、がさり、と何かが動く音がした。わたしはぴたりと動きをとめる。
 しばらく待ってみたけれど、それきり音はしなくて、じりじりと時間がすぎていった。やっぱり気のせいだ、と思っていたら、ドアのついた壁の上、タンクの所に毛むくじゃらの生き物がいたのでわたしはひゃあ、と声を出してしまった。あわてて口をふさいだけれど、その生き物はゆっくりと動きはじめた。たてに長いだ円みたいな形をしていて、わたしより少し背が高い。全身には植物の葉っぱがついていて、ところどころ名前も知らない花が咲いている。黄色やオレンジの花はそれだけで見ればきれいだったけれど、葉っぱと花で固められた、よく分からない生き物は怖いものでしかなかった。それは人みたいに2本の足をハシゴにかけて、わたしへとゆっくり向かって降りてくる。
 まずい、逃げなきゃ、とわたしはようやく頭をはたらかせて、ドアノブをしっかりとつかんで回した。見回したかぎり、ここしか出入り口はない。けれど、がちゃがちゃとうるさい音を立てるだけで、開いてはくれない。
 ぎし、ぎしとハシゴを降りる足音が聞こえる。
 おねがい、開いて、とわたしは心の中で何度もとなえる。
 やがて真後ろに気配を感じて、肩ごしに何かの息がかかる。なまあたたかい。心臓がばくばく鳴ってしょうがなくて、ぴりぴりと手がふるえだす。そして、急にドアノブにかけた私の手の上に、手が重ねられた。それは桃色の爪がついた、女の子の手だった。
 ばっと後ろを振り向く。
 顔の左半分が植物におおわれた女の子が目の前にいて、
「たすけて」
 そう言ったのを聞いた。

***

 わたしはがばっと体を起こして、目が覚めた。まだ暗い部屋の中で、カーテンからのびたほそくてよわい光が、私の手の上に線をひいていた。そっと窓の外を見てみると、まだお日さまものぼっていなかった。ほかのベッドの子たちはすやすやと眠っている。まだ起きるには早すぎるかな、と思って、わたしはまっしろな布団を頭までかぶる。
 まださっき見た夢が忘れられなくて、体がばくばくと鳴っている。だいじょうぶ、だいじょうぶと、わたしは言い聞かせてぎゅっと目を閉じた。

 お昼を食べたあと、ひまになったので病院内を散歩することにした。いっしょの部屋の子たちは目をそらしてわたしと話をしてくれないし、年上の人と話す方が好きだ。
 お気に入りの本を片手にぷらぷらとガラス張りのろう下を歩いていると、ふと中庭にいる女の子が目に入った。気になって、鼻が窓ガラスにつかないよう注意してのぞき込む。その女の子は、左腕を包帯で固定して、肩でしばって吊っていた。骨折したんだろうか。特に行くところもなかったので、わたしは中庭に向かうことにした。エレベーターの矢印ボタンを押すと、オレンジガムの色にぺかりと光った。
 中庭の中央、大きな木の下のベンチにその子は座っていた。三つ編みをした赤っぽい茶髪に、木もれ日のまるい光がゆれている。きらきらひかる優しげな光とはちがって、女の子は不機嫌そうな顔でガラスの向こうの受付をじっとにらんでいる。
 その子の斜め前から、そっと近づいてみる。すぐさま女の子はきっとこちらを見て、
「何か用?」
 とがった声でそう言った。なわばりに入られたけものみたいに、鋭い眼をひからせる。勢いに押されそうになったけれど、初めて見た子で好奇心の方が強かった。私は小さな口を開く。
「今日、はじめて来たの?」
「そーよ」
 ふんと鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまう。おそいかかってくることはなさそう。
「となり、座ってもいい?」
「別にいーけど」
 となりに座ると、ちらりと目だけでわたしの方を見て、また受付の方に視線をもどす。
 うながしたわけじゃないけど、自然と女の子は話しはじめる。
「体育の時間に、クラスの子とケンカになって。ムキになってやってたら、変な風に手をついて、痛めちゃったの。病院に来てみたらしばらく入院だって。あの子はなんにもケガしてないのよ。向こうからふっかけてきたケンカなのに」
 ひと息でそこまで言うと、はあっとため息をつく。
「バカばっかりで本当にイヤになる」
 ふうんとわたしは答える。
 ぴくりとまゆげを動かして、こちらをじっと見つめて聞いてくる。
「あんた、名前は」
「藤沢花乃」
「あたしは、幡 有紗」
 はきすてるみたいにして言った。
「初めて会ったのにグチを聞いてくれるなんて、あんた変わってるわね」
「そうかな」
「そうよ。ふつー、なんだこいつって、変な顔するもんよ」
「聞いてくれそうだからって、そっちが思ったんなら言ってもいいんじゃないの。べつにわたしは気にしない」
 へえ、と感心したような、けれど、うわべだけの返事をする。

 幡は私と近いところの病室だったので、途中までいっしょに行くことにした。
 中央ロビーからエレベーターで上がって、病室のある3階に着く。ピンポーンと軽い音が鳴って、重たそうな銀色の扉がひらく。出ようとした所で、幡はわたしの左腕をつかんだ。
「どうしたの?」
 振り返ってみると、幡の顔は青かった。何も言わずにぷるぷると首を横に振る。
「ダメ」
「部屋、ここでしょ?降りようよ」
「ダメ、無理」
 扉がひらいた先の廊下には誰もいない。
 力強くつかまれた手を振りほどけなくて、やがて扉は閉まってしまった。
 下の階からの呼び出しに答えて、エレベーターは下に降りていく。
「いったいどうしたの」
「………」
 幡はやっとつかむ力をゆるめてくれた。
 うつむいて、どんな顔をしているのかは見えない。

 しょうがないので、階段を使って上ることにする。ぺたぺたとふたりのスリッパの足音がひびく。2階をすぎた辺りで、幡は話しはじめた。
「何言ってんだって思うかもしれないけど」
 わたしは幡の背中を見ている。
 振り向かないで話はつづく。
「でっかいクマがね、いたの。ろう下に」
 とつぜん出てきた言葉に、わたしはあっけに取られてしまう。
「ほんとよ。エレベーターの扉を出てすぐの所。床から天井までの高さの大きい真っ黒なクマ」
 すかさず幡は言葉をつなげる。
 わたしは、そう、だとか、なんで、だとかどう返したらいいのか分からなかった。返事につまってしまって、不自然な間ができる。
「変なやつって思ったでしょ」
 おどり場を過ぎて、まだ上っている私を見下ろすようにしてこちらを見る。
 きりりとしたまゆげとは逆に、目はなんだかこわがっていた。口のはしっこが少しふるえている。
 病院内の話し声がとおくなる。わたしはじっと見つめる。返事は待たずに、幡はまた上りはじめる。
「わたしもね」
 背中をおされたように話しだす。
「夢をね、見るの。花が体に咲いた人が出てくる夢」
 幡の足がぴたりと止まる。
「変なの」
 そう言い残し、はじかれるみたいに幡はかけ上がって、ろう下を走っていってしまった。
 わたしは取り残されて、しばらくの間ぽつんと立っていた。

 しょんぼりとした様子で病室に戻ると、
「にげろ、しにがみだ!」
 と、同じ病室の子たちがきゃーきゃー言っている。
 わたしはそっちを見もしないで自分のベッドに戻ると、頭まで布団をかぶってぎゅっと目を閉じる。何人かの足音と声が遠ざかる。

 あのおばさんの具合は良くならないままだそうだ。
 仲良くなった人が死ぬのは、もう見たくはなかった。

 それから数日後。
 わたしは、看護師さんたちには入っちゃいけないと言われている、病院の屋上に来ていた。なんでも、柵がさびてぼろぼろになっていて危ないから、という理由で立ち入り禁止になっている。けれどもこうしてたまに来ているのは、誰もいない所にふと行きたくなるからだった。はがされたテープの跡がこびりついたドアを開けると、びゅうと風が吹きこんできた。かたかた壊れたフェンスがゆれる。
 わたしはドアから出てすぐのかべにある、でっぱった部分に座り込む。自販機で買ったヨーグルト味ジュースの紙パックを手に取って、小さな穴にストローをさす。パックの水色より空の色はうすくて、ジュースはほのかにあまくて水っぽい味がした。
 宙にういた足をぷらぷら動かしていると、ふいにガチャンとドアのひらく音がした。びっくりしてふり向くと、そこに幡がいた。
「は、何であんたがいんの」
「そっちこそ」
「話したくないわ」
 幡はあらっぽくドアを閉めると、ずかずか歩いてどかっとわたしのとなりに座った。
「のむ?」
 ちらりとわたしを見て、無言で手を伸ばしてくる。手に取って一口のむと、
「まずっ」
 べえと舌を出してわたしに戻した。
「よくこんなんのめるわね」
「正直わたしもおいしくないと思った」
「じゃあすすめんな」
「すすめてのんでくれた子いなかったし」
 しょんぼりした感じが出ていたのか、幡はむっとした顔をして、
「じゃあちょっとおいしかった」
「いまさら言われても」
「うっさい素直に受けとれっ」
 気に入らなかったのか、わたしとは逆の方向を向いてしまう。
「ね、もしかして、部屋の子とけんかした?」
 ばっと振り向いて、なんで、という顔をする。口がぱくぱくと金魚みたいに動いてる。分かりやすい反応に、わたしはぷっと笑い出してしまう。
「笑うなよっ」
「だって、話し方がらんぼうなんだもの。小さい子だったら泣いちゃうよ」
「昔っからこうなの。周りの子がやわすぎるのよ」
「そっちが強すぎるのよ」
「やっぱあんたそうとう変」
「お互いさま」
 はあー、とため息をついて、幡は片手で赤毛の髪をいじる。飛行機がゆっくりとわたしたちの上を飛んでいき、白い雲が線をひく。
「そういえば、あんたは何でここに来てんの?」
「わたし、同じ部屋の子たちに嫌われてて。つまんないから、たまにここに来てるの。ほかにだれも来なくて気が楽なの」
「ふーん」
「…わたしのうわさ、聞いてない?」
 流れにまかせて聞いてみた。
「聞いたかも」
 わたしはごくりとつばを飲みこむ。
「バカみたいって思った。あんたと話したら死ぬって?それくらいであたしが死ぬわけないじゃん」
 幡はほおづえついて、街並みを見ながらそう言った。

***

 天井の照明に虫が止まっている。
 視界の上の方に翔太がひょっこり顔を出して、
「ねーちゃん、だらけすぎ」
 と私に言う。
「うっさい」
 両腕を伸ばして、ひとつ伸びをする。そのまま下ろした手をまぶたにやって、人差し指で擦る。
「ずっと寝てたの?」
「まーね」
 考え事をしていたら、いつの間にか寝ていたらしい。
 昨日のことが心のどこかに引っかかっていて、気になってしょうがなかった。
 女の子のこと、水瀬と上町のこと。
 あの後バスを降りるまで、水瀬からいくつか幼馴染の話を聞いた。「ミサキ」という名前で、水瀬と同い年だったそうだ。ミサキと水瀬は仲が良く、途中上町と知り合ってよく一緒に遊んだこと、そして事故に遭い亡くなったこと、それから上町とは疎遠になったことを話してくれた。
「事故の後、上町君が引っ越して、僕も親の都合で引っ越したんです。この辺りの大学に通っていることは、母伝いには聞いていました。けれど倉阪先輩と知り合いだったとは」
「私はお店で知り合ってね、それからちょいちょい会うんだ」
「そうなんですね」
 水瀬くんはにこりと笑う。笑顔に纏う雰囲気は、大学時代の時より幾分か柔らかくなった気がする。
 バスはゆっくりと、ある停留所に着く。じゃあまた、と手を振る水瀬くんを見送って、ドアは閉まって走り出す。
 信号を待つ水瀬くんの後ろ姿を眺めながら、上町の夢のことは知っているのだろうかと、ぼんやりと思った。

 私は手を宙に伸ばして、勢いをつけて起き上がる。
「よしっ」
「お、なんかやる気になったの?」
「そーよ」
 私は、翔太に笑いかけた。

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