ドアを開けると、高梨さんが顔を上げた。にっこりと笑顔になる。
「今日も来てくれたんだ。嬉しいなあ」
「何読んでるんですか?」

 まずは、あの女の子の元を訪ねてみよう。
 そう勢いよく出てきたはいいものの、そういえば名前も部屋番号も分からないことに、病院に着いた所で気づいたのだ。我ながらばかだなあと思う。受付に直に聞いていいものか少しためらい、とりあえず高梨さんの様子を見てみることにしたのだ。

 私が聞くと、高梨さんは目を輝かせて雑誌の表紙を見せてくれた。超常現象やUMAの特集雑誌らしい。
 世の中にはそんなものがあるのか、と私はへえと相づちを打つ。
「啓が買ってきてくれてね」
「ケイ?」
「弟。今大学生なんだけど、身の回りの荷物とか持ってきてくれて。助かってるよ」
 水瀬くんと同じ名前かあ、と頭の隅で思う。
「そうなんですね」
「あ、そうだ。この間病院内で面白い噂聞いてさ」
「噂?」
「何でも、死神がいるとか」
「何ですかそれ」
 病院で死神とは、物騒な話だなと思う。ふふんと得意げな顔をして、高梨さんは話し出す。
「入院してる子なんだけれど、その子と話すと呪われるとかなんとか。仲良くなった人達が次々に具合が悪くなったり、亡くなったりしているらしい」
「どんな子なんですか?」
「女の子で、小学2〜3年生くらいかな。黒髪で、2つ結びにしてるらしい。あ、そうそう、その子のいる病室も昨日聞いて」
 私は饒舌な高梨さんの肩をしっかりと掴んで聞く。
「その子の事、教えてくれますか」
 へ、と高梨さんは間抜けな声を出した。

 私は、メモをした番号の付いた病室へと向かう。小児病棟の透明なドアをくぐり、目的の場所にたどり着く。
 高梨さんの情報によると、「藤沢花乃」という名前らしい。名前プレートを確認し、開け放しになっていた部屋へと入る。
 しかし訪れたはいいものの、その子はいなかった。
 6人くらいの相部屋で、それぞれのベッド周りにはおもちゃなどが置いてある。花乃ちゃんのベッドの所を見てみると、他の子よりも整えられていて、児童書が何冊か積まれ、花の写真やマスキングテープを入れたクリアケースが棚の上に置かれていた。高梨さんから容姿の特徴を詳しく聞いたところ、この間会った女の子と似ていたため気になって来てみたのだが…。
 何処へ行ったのだろうと、辺りを見回す。そうして向かい側のベッドにいた子と目が合う。
「ね、かのちゃんってどこに行ったか知ってるかな?」
「しらない」
 と首をぷるぷる横に振り、そっぽを向いてしまった。
 仕方なく、出直そうと思い部屋を出る。帰ろうと思いエレベーターへ向かおうとした所で、廊下の向こうから看護師さんの叱る声が聞こえてきた。何事かと思い見ると、看護師さんに連れられて歩いて来るーーー花乃ちゃんがいた。
「また勝手なことして…」
 花乃ちゃんは側を歩く看護師さんの言うことには聞く耳持たずといった感じで、ぷいと横を向いている。
「こんにちは」
 私が挨拶をすると、看護師さんは見舞いの方かと思ったのか、ぺこりとお辞儀をした。花乃ちゃんは立ち止まって、少し驚いたように私を見る。

 看護師さんが行った後、花乃ちゃんはベッドの上でそわそわとしていた。
「あの、聞きたいことがあるんだけども」
「あのね」
 私が話を切り出すと同時に、花乃ちゃんも話し出そうとして被る。いいよ、と先を促す。それでもしばらく迷ったようで、視線を彷徨わせる。小さな指先に掴まれて、白いシーツは皺を作る。ついに決心したように、おそるおそる私の顔を見て言う。
「おねえさんに、頼みたい事があるの。わたしだけじゃ、だめだったの」
「頼みごと?」
「友だち…と、呼んでいいのか、まだ分かんないけど。助けたいの」
 まつ毛に縁取られた、大きな目を瞬かせる。

 花乃ちゃんの話によると、同じ病院にいる有紗ちゃんという女の子は、幻が見えるらしい。
 幻は、不意に現れる。
 街中や、家や、病院や。時と場所は選ばない。おとぎ話に出てくるような人や動物が多いそうで、最近はクマが多い。天井まで届くような大きさで、真っ黒な体毛、ギラギラと光る眼を持っている。また、それは消えるのも突然だという。
 何故見えるのかは有紗ちゃんも分からない。

 私はこの話を聞きながら、時折遭遇するあの名前の分からない人の事を思い出していた。同じ現象なのかは知らない。
 クマと人では随分違うが、白昼堂々と現れては、唐突に消える所が似ているとは思った。
 気まぐれに現れては見せる微笑が、頭を掠めた。

 花乃ちゃん曰く、今日、有紗ちゃんが血相を変えて早歩きしていたのを見たらしい。顔は青ざめていて、前にエレベーターで幻のクマを見た顔色と同じだったという。なんだか胸騒ぎがして、病院中を探し回っているところで立ち入り禁止の場所に入ってしまい、看護師さんに連れ戻されたらしい。
 まだ有紗ちゃんは、見つけられていない。

「探してほしい」
 私は花乃ちゃんの頼み事を、任せて、と受け入れた。
 病院内の心当たりがあるところは、大抵探したという。病室、中庭、休憩室、ロビー…
「あと、屋上が見れてないの。立ち入り禁止だけど…もしかしたら」
「じゃあ、そこを見てみると良い訳ね」
「たぶん」
「わかった。じゃあ、行ってみるわ」
 私が出ようとしたところで、ぐいと袖が引っ張られた。
「わたしも行く」
「え、また看護師さんに見つかったら…」
「気になるから。お願い」
 深い紫色の瞳に、小さな私の姿が映る。振りほどこうとする私の動きを見据えたように、しっかりと袖を掴んで離さない。
 しばらくお互い見つめあったままにしていたが、やがて私は折れる。
「わかったわよ」
 それでぱっと顔を輝かせるものだから、やれやれと私は軽くため息をつく。

 立て付けの悪いドアを開け放つと、乱暴な風が吹き込んできた。耳元で風の音が鳴る。
 視界を遮る前髪をどかして、辺りを見回す。物干し竿の名残の置き石、ベンチがあった足場の跡。フェンスは破れて錆び付いている。細く黒い線が目の前に現れては手でかき上げる。有紗ちゃんの姿はない。
 何処にいるのかと視線を彷徨わせる私の目の前で、花乃ちゃんは一点を見た後、立ち止まってしまった。見上げてはっと息を呑む様子につられて、私も上を見る。

 有紗ちゃんは給水塔の上にいた。そして私は、信じがたいものを見た。
 有紗ちゃんのすぐ脇、黒く影のようなものが居た。話で聞いたようなクマにも、人の形にも見えた。
「なによ、あれ」
 花乃ちゃんは私を振り返る。
「黒い、何かが給水塔の上に…え、見えるわよね?」
 花乃ちゃんは戸惑って、力なく首を左右に振る。私は、え、と行き場のない声を出す。
 有紗ちゃんは驚いた様子で、花乃ちゃんと私に目を向ける。
「来んなよ!」
 給水塔の上から声が降る。力強い調子で言うも、ぼろぼろ涙が溢れて、体は震えている。
「今、目の前に居るの、あれが。でも、これはまぼろしだってあたしも分かってるの。分かってるはずなのに…」
 じりじりと、塔の端に後ずさる。あと一歩動いたら、踏み外して落ちてしまう。黒い何かはゆっくりと有紗ちゃんに近づく。
 得体の知れない何かに、私は背筋が凍ってしまう。
 その間に花乃ちゃんは、すばやく給水塔への梯子を上りはじめる。金属の、鈍く軋む音が鳴る。
「だから、来んなって言ってんでしょ!?これはあたしの問題なの!」
「ほっとけないから来てるのよ!」
「あんたほんとにお節介ね!」
 ぎゃーぎゃー言いながらも花乃ちゃんは近づいていく。
 手にこびり付く錆は気にもせず、華奢な腕を懸命に伸ばし、掴んで上がっていく。パジャマの裾がひらめいて、花乃ちゃんのおさげにした髪がゆるく解けかかっている。あと数段でたどり着く。
 黒い何かは気配を感じ取ったのか、手のようなものを伸ばして、有紗ちゃんに触れようとしている。
 彼女はばっと片腕を上げて防ぐような仕草をする。
 と、その途端、短い悲鳴が上がった。

 ぐらり、バランスを崩しーー有紗ちゃんの上半身が空中に投げ出された。

「有紗!!」

 花乃ちゃんの叫ぶような声が響いた。
 危ない、と思い私は咄嗟に手を伸ばす。

 高梨さんが崖から落ちた時の場面が蘇る。
 ゆっくりと髪の毛、頭、腕、胴体、脚、つま先が順に私に向かって落ちてくる。
 有紗ちゃんの赤い髪が日に当たってきらりと光り、眩しく白い筋になって目に焼き付く。淡いピンク色のカーディガンが風を受けてはためき、ふわりと宙に浮く。
 私は足をぐんと踏みしめて、両腕を目一杯前に広げる。そうして、仰向けに落ちてきた有紗ちゃんを、しっかりと受けとめる。腕、足にぐっと力がかかって、予想以上の勢いに押され、留めることが出来ずに尻もちをついてしまう。
 カエルみたいな鈍い声が喉をついて出てしまい、痛みにじわりと涙が滲む。尻や腕が痺れて痛かったが、どうにか受け止めきれたようだった。
 胸元で縮こまるようにしていた有紗ちゃんが、ううん、と呻き声を上げる。
「大丈夫?」
「はい…」
 掠れた声で答えた。
「あいつは」
 ばっと体を起こして給水塔の上を見る。数秒後、ほっとした顔つきになる。長くため息をつく。
「よかった…消えてる」
 私もつられて見てみる。確かに、給水塔の上にあった黒い影は居なくなっていて、安心した様子の花乃ちゃんがこちらを見ていた。
「バカばっかり」
 有紗ちゃんは吐き捨てるようにそう言った。そう言う彼女の手は微かに震えていて、私はぎゅっと握りしめた。

「そういえば、この人は誰なの?」
 有紗ちゃんは落ち着いたようで、花乃ちゃんと私と一緒に歩いて病室へと歩いていた。花乃ちゃんはうーんと迷って、
「この間知り合った人」と答えた。
 へえ、と頷く。すると有紗ちゃんは向き直って、
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
 とぺこりと頭を下げた。
「どういたしまして」
 私もお辞儀を返す。
「私は、倉阪葵。助けられてよかった」
「幡有紗といいます。藤……花乃とは、一応友だちです」
 その言葉を聞いて、花乃ちゃんはぱっと私たちを見る。有紗ちゃんは照れたように、
「こっち見んなよ」
 と毒づいたが、花乃ちゃんは朗らかに笑った。

 有紗ちゃんを病室へと送り、花乃ちゃんの病室に戻ると、見知らぬ白髪のおじいさんが居た。
 茶色のスーツに中折れ帽子、杖をついてすらりとした姿勢で立っていて、ふわふわとした白髭を顎の下にたっぷりと付けている。
 優しい目をした人だった。
「花乃」
「おじいちゃん!」
 花乃ちゃんはぱたぱたと走っていき、おじいさんの腰あたりに飛びついて、ぎゅっとくっついた。
 皺だらけの手が愛おしそうに花乃ちゃんの頭を撫でる。私は軽くお辞儀をする。
「孫がお世話になっております」
 帽子を取り、丁寧なお辞儀を返される。
「いえ、こちらこそ…初めまして」
「初めまして、ではないですね」
「え?」
「実は、貴女を探していたのです。倉阪葵さん」
 突然自分の名前を言われて、私はたじろぐ。

「私はラバージと申します。夢について調べておりましてーーあなた方の話をお伺いしたい」

 申し出に戸惑う私をよそに、ラバージさんはにこりと笑った。

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