病院の前の、一本通りを挟んだ向かい、公園のベンチに上町はいた。公園自体は広くはなく、遊具も特にない。住宅地の入り口近くに位置する場所にあって、空き地とするには勿体ないから、という理由で拵えられたような所だった。他に人気はなくて、閑散としている。公園というにはいささか狭すぎると思ったけれど、立て看板が言うにはそうらしい。私は切り揃えられた青い芝生を踏みしめて、上町の隣に腰掛ける。
「一体どうしたのよ」
 上町はこちらを見ない。視線の先には車道。青い車が一台走り去る。
 木漏れ日が顔や髪の上にまだら模様を作り、光の縁が金色にきらめく。
「言ってくれなきゃ分かんない」
「さっきの」
「ん?」
「あのじいさんが話していた人の事。あんたも見た事あるか」
「あるわよ。夢に出てくる」
 私はふんと鼻を鳴らす。
「自分は、ないと思った。だから聞かれた時に知らないと答えた。けれど、手帳に書かれた名前を見た時に、違和感があったんだ」
「違和感?」
「夢に、昔の友達が出てくるんだ。そいつの名前とどうしてだか似ていた。手帳に書かれていたのは、全く知らない名前だったのに」
「よく似た漢字の名前だったんじゃなくて?」
「違うんだ、全然。でも、似ている、って思った」
 どういう事だ、と上町は呟いた。私は眉間に皺を寄せている上町の様子に、じりじりと這い寄るような不安を感じる。けれど確かめたくて、私は質問をする。
「その、夢に出てくる友達の名前は?」
 上町はこちらを見て、明瞭な声で言う。
「***」

 風がさっと吹きつける。雑音の、聞き取れない単語。
 それは、前に夜の街灯の下で聞いた、名前のような何かだった。
 私は口をつぐむ。

「ごめん、聞き取れない」

 目の前で口が何らかの言葉を作って、声として吐き出しているのにも関わらず。

 上町は繰り返す。
 その度に私は首を横に振る。

 3回目の試みの後、あぁやめだ、と空を仰いで上町は降参した。ベンチの背もたれに寄りかかる。
 吐き捨てるように、空へと言葉を投げる。
「何で聞き取れないんだよ」
 言葉は落っこちて、足元に転がった。
「こっちが聞きたいわ」
 私も上町に習って、空を見上げる。ざあと吹く風で、雲の流れる速度が速い。何層にもなった雲は、それぞれの層で速さが違っているらしくて、色も白色だけではなく、グレーっぽいものもあった。先程より量が多くなってきている。何処からか、風が雲を連れてきているんだろうか。
「ねえ」
 反応はない。けれど私は返答を期待して話し続ける。
「どうしてさっき、手帳を閉じたの?」
 上町はベンチの上に投げ出していた片手を上げ、荒っぽく頭を掻く。さらさらとやけに発色の良い髪は、いくつか流れて眼鏡にかかる。頭頂部だけ仄かに茶色い。自然ではない、染めて作られた人工的な黄色は、何故だか不思議と上町には合っていた。青空が所々覗く雲ばかりの空を見たまま、強く横に引き結ばれていた口がゆっくりと解かれて、動く。
「……怖かった」
 ぽつりと呟く。
「何が?」
「知るのが」
 今、この場で*が現れてくれたら良かった。上町との会話はどこかが噛み合っていない。締まりの悪いドアみたいに、はまったと思っても微妙なズレが生じてしまう。無理にいじれば蝶番が壊れてしまい使い物にならなくなる。調整する技師が必要だった、仲介してくれるような存在の。けれどこちらが期待していない時に不意に現れては煙に巻くような物言いをすることは分かっていたので、叶わない望みだろうと頭の中でかき消した。

「怖がったって進みやしないよ」
 私は静かにそう言った。諌めるつもりも突き放すつもりもなく。自分にも言い聞かせているのだろうかと、言葉を発した後に私はそう 考えた。起き上がった上町は何かを言おうとして、口を開きかけたところでその動きを止めてしまった。声は出てこなくて、代わりにふう、とため息混じりに言う。
「そうだな」
 木漏れ日に照らされて、茶色の瞳が透き通って見える。
 私は、上町とどことなく詰めきれない距離があるように感じている。突然店の中で倒れて眠ってしまった事、先程ラバージさんが言っていた、小学生の時に遭遇した騒ぎの話。そして、水瀬くんと共通の同級生が亡くなっている事。知らない事が多くあった。それもそうだ。知り合ってから数日の、おまけに自分について多くは話さない、偏屈で口の悪い上町の事だから。それらについて私は知りたいと思うが、むやみやたらに調べ回られるのは気持ちの良いものではないだろう。カフェの中のやり取りが思い返される。ラバージさんは、どこからあれらの情報を引き出してきたのだろう?
 無理に暴くことは当然本人は嫌がるだろうし、何より自分の好奇心に素直になって、知ってしまう事が果たして良い事なのか判断しかねている。
 他人の人生は見世物ではない。
 私は彼自ら、上町の口から語られるのを待とうと思った。それが一番真摯で、誠実な姿勢だと思った。

 ふと視線を横に向けると、上町がノートと鉛筆を取り出して、何かを書いていた。時折躊躇うように鉛筆を走らせ、止めてを繰り返している。手元を見ると、文字を書いては、塗り潰している。逡巡している様子だったが、やがて一息をついてから、
「これ」
 急にぐいと、手にしていたノートを目の前に突き出された。
「何よ」
「夢で会うあいつの名前」
 私はごくりと唾を飲み込む。正方形のリングノートを、片手でしっかりと受け取る。
 無地の紙面上、点在する荒っぽく塗り潰した鉛筆の合間に、黒い筆致で書かれたもの。それは、

『***』

 これが名前?
 信じられない気持ちで、私が顔を上げると、上町はわずかに視線を彷徨わせてから、視線を合わせた。
「そうとしか、書けない」
「待ってよ。上町、さっき口でちゃんと言っていたじゃない。どうして」
 言い終わる前に、上町は返す。
「口では言えるんですよ。でも、文字で書こうとすると、その音が書き起こせない。代わりにどうしても、その記号が浮かんでくる」
 掴んでいるノートが、じわりと異質なもののように感じた。確かに手の上に存在するのに、持っている感覚が妙に薄い。取り落とさないように、私はぎゅっと指に力を入れる。
 これは名前とは言えない、そう思った。記号を並べただけのものが名前だなんて馬鹿げている。けれど、上町の返答を聞いた途端、不思議と腑に落ちてしまったのだ。音声上で聞き取って、どの言葉にも変換できなかったそれが、その記号に置き換えられた途端、納得できる形に変わってしまった。いや、一度見てしまえば、それ以外最早考えられなかった。それ程に記号の名前は、例の雑音に合っていた。しかし不定形のものに表す言葉が見つかったというのに、根拠もなく「当てはまっている」と確信を持たせる心地に、尚更違和感が募った。
 説明できない感覚のまま、私は上町にノートを返す。それは無言で受け取られる。

 緩やかに風が吹いて、髪が一線、さらりと鼻筋にかかる。自転車が一台、目の前の道を通り過ぎる。

 私は上着のポケットに入れていた、真新しいクリーム色の名刺を取り出す。整えられた長方形の中に、印刷された紺色の文字が並ぶ。表面を撫でてみると、文字は凹凸を伴って印字されていた。名前は「ラバージ」だけで、苗字もミドルネームも書かれていない。本名かどうかは分からず、しかしわざわざ本名でない名前でこんな凝った名刺を作るだろうか?と疑問が湧く。私が手の中の名刺の縁を指でなぞっていると、上町はベンチから立ち上がった。
「ねえ」
 少しの間だったというのに、随分と久しぶりに声を出した気がした。
 呼びかけに、上町は振り返る。着ている白いシャツが風にはためく。
「教えてくれて、その…ありがとう」
 上町の口元がわずかに動く。
 違和感と不安は、私の中で収まらないままだった。それらに対する答えは、あの老人が、その一端を持ち合わせているかもしれない。そう思った。
「考えたんだけれども。もう少し、話を聞いてみようと思う」
 私は名刺を見せて伝える。上町はゆっくりと瞬きをして、口は噤んだまま、そのままふいと背を向けて歩き出した。
「勝手にしろよ」
 こちらを向かずに、声だけが届いた。

***

 消毒液の清潔な匂いが漂っている。多くの人が行き交い寝食を行なっているはずの場所なのに、この建物内のどこに行っても感じる、等しく整備された香り。いつまでも僕は慣れなかった。日常の地続きから、少し離れた場所のように感じて。

「兄さん、元気?」
 僕は薄グリーン色の引き戸を、後ろ手で閉じる。窓側のベッドに座っている、癖っ毛頭の兄さんは朗らかな笑顔で僕を迎えた。
「啓、ありがとな」
「どういたしまして」
 僕はにこりと笑って返す。持ってきたカバンを椅子に置き、着替えや本などを整理しながら話を続ける。
「足の調子はどう?」
「順調だよ。まだ日数はかかるけど、良くなってきてるって」
「そう」
「でも、毎日退屈だよなあ…なんか面白いことないかな」
「ずっと寝てると、確かにね」
「そうなんだよなあ」
 あ、と不意に兄さんが声を上げる。どうしたの、と僕は作業する手を止めずに聞く。
「そういえばさ、啓の友達に、上町って子、いたよな?」
 僕は手を止める。前触れもなく、唐突に縁遠くなった幼馴染の名前が飛び出してきた理由が分からない。
「…なんで突然?」
 僕は顔を上げて聞く。その時目に映ったのは、きらきらと星のように輝く眼をした兄さんの顔だった。
「ちょっと確認したくて」
 言い淀むような口ぶりでそう言うが、好奇心に駆られた表情は隠しきれていなかった。無邪気で、まるで新しい遊びを思いついた子どものような顔。それに気付いて、僕は自分の顔がさっと青くなるのを感じた。

 教えてはいけない。

 頭の中で響くような心地がした。自分自身のはずなのに、低く重さのある声。直感で、教えてはいけない。そう感じた。今までの、兄さんの行動から、察するに。舌が口腔内に貼りつき、言葉にする事を恐れて止めようとするが、なんとか引き剥がして動かす。震えようとする喉を落ち着かせて口を開き、僕は努めて平静を装い、
「居ないよ」
 と嘘をついた。
 そう聞いた途端、兄さんはきらきらとした光をすっと瞳の中に溶け込ませて、
「そっか」
 とだけ言った。
 僕は誤魔化すように、開けていた棚の扉を閉めて、終わったよ、と告げた。
「あ、そうだ。この間店長が見舞いに来てくれて、美味しいお菓子貰ったんだけど食うか?」
「うん」
 その後は、いつも通りのなんて事ない会話に戻った。

 僕は兄さんに手を振って、病室を後にする。音もなく閉まる引き戸の様子を見届けて、エレベーターの乗り場へと向かう。
 兄さんが上町の事を知るのは、時間の問題だとは思っていた。けれど、本当に知ってしまうとは。恐れが的中してしまい、手持ち無沙汰に両の手を擦る。
 兄さんを、上町と会わせてはいけない。自分の中では警報のようにその言葉が鳴り響いている。今、どこまで調べているのだろうか?僕が上町との幼馴染ということは、幼い頃よく遊んでいたから、前から知っていた可能性はある。やはり、あの騒動の一端をどこかで見聞きしたか。今この時代は、その気になれば昔の出来事も調べ上げることなんて容易い。予想できたはずの現状に、届くことはないだろうと、どこか甘えた判断を下し続けていた自分が、少し愚かしく思えた。

 僕は、どうすればいい。

 エレベーターのボタンを押すと、ぺかりと、安っぽい橙色の光が僕の指先を照らした。

 

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