最たるもの

「何で自分も行かなきゃならないんですか」
 不満げな声が、こっちを見もせずに投げかけられた。日曜日の晴れやかな午後、私はヒールのないパンプスを履いて、ある場所へと向かっている。地面のタイルの感触が、薄っぺらい靴底越しに私の足へと伝わる。
「話を伺いたいんだと」
「はあ」
 全く隠そうともしない、隣を歩く明らかに面倒臭そうな声色に向かって、私はぶっきらぼうに答える。
「私だって聞きたいわ」
「この前病院で勝手に行ってしまった方が、今度は呼びつけてくるんですね」
 声の主に向かって、私はムッとした顔を向ける。語尾は敬語ではあるけれど、敬う気持ちなんてこれっぽっちもない言い方だ。確かに勝手に歩き回ってしまった私も悪いけれど、それにしたってもう少し他に何か言い方があるだろう。私は返事もせずに早足で歩く。ちらりとこちらの様子を窺った上町は、質問を投げかける。
「大体誰なんですか。そのラバージって人」
「よく分からないけれど、話がしたいって。それと…私達の名前、知ってたのよ」
 今日は、この前花乃ちゃんの病室で出会った老人、ラバージさんと話をする予定だ。何故か私達の事を知っていて、改めて会って話をしたいとの事だった。その場に居なかった上町も加えて。
「胡散臭いですね」
「でも、気になるっちゃ気になるでしょ」
「それはまあ…そうですが」
 上町は怪訝な顔をしていて、どこか腑に落ちない様子ではあったが、彼なりに気になるところもあったのか来てくれた。この間私だけで突っ走ってしまった事に関しては、少し怒っているようだったが、会って開口一番で謝ったところ、渋々納得してくれたようだった。完全に許してくれたわけではなさそうだが、とりあえず良しという事にしておこう。

 大きな病院の正面出入り口の自動ドアをくぐり、入って右手にある、併設されたカフェの透明なドアを開ける。からん、と軽やかで澄んだベルの音が鳴る。お茶の時間に近い事もあってか、店内はそれなりにお客さんが入っていた。暖かな陽の光が射し込み、皆和やかに話をしている。どこか懐かしい色合いの深緑色のソファーは、所々表面が剥げて、中身の綿がのぞいている。
 私は窓際のボックス席、キャラメル色の丁寧に拭かれたテーブルに座っている、品の良いスーツを着たおじいさんを見つける。歩み寄る私達に気づいたおじいさんは立ち上がり、帽子を取って会釈をした。にこやかな笑みに、私はあわてて会釈を返す。
「今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそ」
「そして君が…上町君かな?初めまして。私はラバージ」
「初めまして」
 上町は軽く頭を下げる。

 それぞれ飲み物を注文し、店員が厨房の中に入っていくのを見届けると、ラバージさんはおもむろに話し始めた。
「今回君達を呼んだのはね、お願いしたい事があるからなんだ」
 ゆっくりと、言葉をテーブルの上にひとつずつ置くように語りかける。
「倉阪君は知っているかもしれないが、私の孫…花乃は、ある事情でこの病院に入院している」
「ある事情?」
「花乃は、小学生に上がった頃から妙な夢を見るようになったんだ。それが原因でここにいる。なんでも、花乃が言うには、誰かしらが死ぬ夢らしい。学校の友達や、近所に住む人など…夢で見るだけでもたまったものではないが、不思議な事に、それは現実にも起こる」
 私は覚えのある流れに頭を巡らせた。夢に見たことが、現実に。私達だけではなかったのかと、安堵と驚きが入り混じる。そして、花乃ちゃんが「死神」と言われていることが頭に浮かんだ。もしかして、花乃ちゃんは、死ぬ人が誰なのかが分かっていたのだろうか?あのおばさんに急いで花を持って行こうとしていたのも、それで?けれど、突然言われたことを鵜呑みにしていいものなのだろうか。
「現実にって…」
「嘘だと思っているかい?」
 すぐさま返ってきた言葉に、私はたじろぐ。柔らかい笑みとは相反する素早さに驚きつつ、側から聞けば突飛で取り合わないであろう話を迷いもせず目の前に持ってきた事に、私は戸惑いを隠せないでいた。ある程度、確証を持った上でこの場に来ているのではないかと思ったのだ。
「疑っているならば、近頃起きた事故や事件、それらの人物との関係性を洗い出してもいい。けれど君にとっては、この類の話は放ってはおけないものじゃないかな」
 柔らかな物腰で話しつつも、手綱は離さないような口振りだった。
「単純な話でね」
 一旦、落ち着けるように息を吐く。
「私は、悪夢を見る孫を助けたい。どうか力を貸してはくれないだろうか」
 ラバージさんは真っ直ぐな目で訴える。その目は揺らぎようがなくて、軽く払うことなんて出来なかった。
「何故自分達にこの話を?」
 黙って聞いていた上町が、間に入って問いかける。
「会って間もない人間に話すことじゃないでしょう」
 それは最もな意見だった。ラバージさんはそうだね、と呟いて、テーブルの上に両手を組み合わせる。骨の浮き出た、皺だらけの白い肌。薬指には古ぼけた銀の指輪が付けられている。
「私は他に、悪夢に悩んでいる人がいないか、またこの現象について近しい話はないか自分なりに調べたよ。そうしたら、君達の事を見つけた。君達は、夢に見るだろう?未来の出来事を」
 私は、言い当てられて息を呑む。
 上町の様子を横目で見てみると、眉ひとつ動かさずに投げかけた。
「どうして知ってる」
 様子を伺うように、低い声で尋ねる。
 いつもとは違う、冷ややかな温度を持つ声音に、私は背筋を強張らせる。普段から投げやりで、暖かみのある言葉なんて聞いた事もなかったが、張り詰めた氷のような、鋭利で冷たい温度に私は身をすくめてしまった。しかしその様子に怯むことはなく、穏やかな表情のまま、ラバージさんは話を続ける。
「私は調べ物が得意でね。その中で君達のことを知った」
 上町は表情を変えない。
 私は、水瀬くんの話していた同級生の事が頭を掠める。不意に、ラバージさんが私の方を向き、話し出す。
「倉阪君は、隣の地区にあるコンビニ店でアルバイトをしているようだね。家族は4人で、弟君は小学生。尚、店は車が突っ込む事故があり修理中。怪我人はいなかったそうだね。それに、近い日に起こった鉄骨の落下事故にも遭遇しているね。当時現場にいた人に話を聞いたから間違いはないとは思うが」
 淀みなく、言葉を繋げる。家族構成と店の状況を言い当てられて、私はまじまじとラバージさんの顔を見る。穏やかな表情は変わらずに、普遍的な態度でそこにいる。私だけが驚いた表情をしているのが、滑稽なくらいに。喉が張り付く感覚に耐えきれなくて、傍らのコップを持ち上げ、水を一口飲む。氷が溶けてぬるくなった液体が、するりと透明な壁を伝い落ちる。
 目の前に佇む、やけに白い顔立ちに刻まれた皺が、口の動きに伴って伸びては縮む。
「特に、上町君。君は、大分前から見ているようだね。小学生くらいからかな?」
 上町は何も答えない。瞼が静かに瞬く。
「以前、超常現象の特集雑誌とかで取り上げられただとか。その時の騒ぎの記録が残っていてね。そこから私は君の事を知ったよ」
 小学生?騒ぎ?
 私にとっては初めての情報が飛び交う。しかしラバージさんから飛び出す言葉は上町にどう響いているのかは読み取れない。少し俯く。人工的な色味の金髪が被さって眼が見えない。眼鏡のつるが鈍く光る。
間を置いて、おもむろに上町が顔を上げる。髪の隙間から見えた眼に、私は一瞬暗くて深い色を見た気がして息を止める。
「それ以上喋らないでもらえますか」
 鋭い目で上町はラバージさんを見る。ラバージさんは一瞥すると、「怒らせてしまったかな。申し訳ない」とお辞儀を返した。
 上町はいえ、と短く返した。

 注文した飲み物が届き、こくりと飲み込む音が喉から鳴る。ソーサーにカップを置いて、ラバージさんは再びテーブルの上に手を組む。
「話を変えようか。孫ー花乃から、色々夢で見たものの話を聞いてね。その中で気になる話があった。いつも夢の中で、会う人物がいるそうだ。その人物の名前を聞いてみたんだが、不思議と聞き取れないんだ」
 私は胸の奥がざわつくのを感じた。
「もしかして、それって……」
「倉阪君はご存知かな」
「心当たりがあります」
「上町君は」
 上町は答えない。私が肘でつつくと、露骨に嫌そうな視線を向けた後に、知りません、と言う。
「花乃ははっきりと、ある人物の名前を言っている。だが何故か、何度聞いても聞き取れないんだ。私の耳が悪くなったのかと思ったが、その前後が聞こえるから理由はそこではない。該当すると思われる、名前の部分だけ不明瞭になってしまうんだ。それは、私にはラジオの雑音のように聞こえたな。ぽっかりとそこだけ情報が抜け落ちてしまっているようだよ。まるで、そう、意図的に、何者かによって穴を開けられたみたいに。倉阪君は、その人物に会ったことがあるのかな」
「何度かはあります」
 私は答えながら、身に覚えのある話が他人から語られるのを聞き、どこか安心した気持ちでいた。先程の問答のせいで、完全に信用した訳ではなかったが、私の感じた違和感は決して気のせいではなかった事を肯定してくれている。私だけがおかしいわけではない。目の前の老人を、私は少しの期待を持って見つめ返した。
「そうか。ちなみに、花乃にその人の名前をノートに書いてもらったんだがね」
 ラバージさんは、傍らの鞄から取り出した、革張りの手帳を私達の目の前に広げる。しっかりとした作りのもので、真っ黒だが艶のある表面を待つそれは、素人目にも高価そうな品だと感じた。それをぱらぱらとめくり、あるページで手が止まる。真っ白なページの中央、薄い罫線が規則的に並ぶ中、青いインクの塊が見える。濃淡を伴って引かれた線の集合体。羅列されたそれらを、私が読み取ろうとした、瞬間。
 バン、と荒っぽく手帳が閉じられた。

 突然の事に、ラバージさんと私が同時に見上げる。上町が、手帳を閉じたのだった。どうしてそんな事をしたのか、理解が追いつかない。その後テーブルに大きな揺れがあり、上町は席を立つ。
「帰る」
 え?と私が呆けた声を上げるが、上町は構わずに店をさっさと出ていってしまった。
「ちょっと」
 私は慌てる。探られたことがやはり気に障ったのか?
 けれど、今このタイミングで、他にきっかけがあったとは思えない。
「あの、すみません。また今度話を聞かせてもらえますか」
 とりあえず断りを入れ、私は荷物をまとめて追いかけようとする。
「待ってください」
 動きを止めて、私は振り返る。ラバージさんは銀色の薄い箱から、丁寧な手付きで一枚の名刺を手に取り、差し出す。
「私の連絡先です。それと、提案しておきたい事がある」
「……何でしょうか」
「私の孫を助けると約束してくれるなら、あなたの希望している手助けとやらにも協力できる。私は、自由に動かせる所がいくつかあってね。取り計らうことも可能だよ。それと、先程の人物のことも気になっているでしょう?」
思わず、名刺を受け取ろうとした手が、強張って止まる。
「取り引きですよ。ただ、すぐに決断を迫る訳ではありません。よくお考えになるよう」
 皺だらけの骨ばった手から、名刺を受け取る。それが私の手に収まる様子を見届けると、にこりとラバージさんは微笑む。
「では、また」

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