私はその喫茶店で、一杯の珈琲を飲んで過ごす事が習慣となっていた。

 常にお店には私一人きりで居た。他には誰も居ない。天井から吊り下げられたランプが等間隔で並び、木目が波打つカウンターを点々と照らし出す。とっぷりと浸った暗闇の中、深く長く伸びていく夜の時間。仄かに焦茶色が混ざった黒色に、辺りは包まれている。店内では街の喧騒は聞こえず、柱時計に付いた振り子の規則的な音だけが鳴っている。ひっそりとした、柔らかな橙色の光を一筋浴びて、私は一番端の席に座っている。気がつくと手元に珈琲が1杯、置かれている。これはいつも通りの事だった。

 ただ今日は、違和感があった。

 臙脂色のカーテンが開けられた格子窓の外。バチバチと煌めく看板、賑やかな飲み屋の灯り、コンビニから放たれる無機質な光。落ち着いた店内とは真逆の、騒がしい街の様子。それらは特に変わりはない。おかしいのは地面だった。一面、水に浸されている。水位は50センチ位で、洪水と言っていい嵩だった。建物にも水は入り込んでいる。

 しかし道を行き交う人々は、気にもとめていない様子だった。振り上げた足と共に水も飛び散る。人通りは多く、車も通り過ぎる。水飛沫が、窓ガラスや壁、人の顔、脚に当たっては伝い落ちていく。嫌な顔をする人は一人もいない。着ている服は皆すぶ濡れだ。この状況がさも当たり前のように歩く。青黒い水面に、白く揺らめく光と人々の何食わぬ顔が映る。それらが織り交ぜられて行き交っているのを見ていると、不安な気持ちが込み上げてきた。

 何故皆、騒がないんだ?

 風景から目が離せない。尚も人は歩いている。信号の点滅で人影が浮き上がっては、夜に埋もれる。赤と黄と青の色が、代わる代わる繰り返される。不安が増す。座って眺めている、自分だけが変なのか。店内の静けさが耳鳴りに感じてきた頃、
「こんばんは」
 不意に声をかけられた。突然の出来事に驚き、弾みで手がカップに当たる。黒い水面が波打ち、陶器の接する音が大きく響く。確認すると、幸い中身は溢れていない。
「申し訳ありません、驚かせてしまって」
 振り返ると、1つ空いて隣の席に、誰かが座っていた。丁度ランプの灯りが当たらない場所に居るために、姿が薄闇がかっていて確認しづらい。身長は私と同じくらいか。その人は微笑している気がする。うっすらと表情が見えるが、確信は持てない。目の瞬きを気配で感じる。声から察するに、歳は私とさほど変わらないように思えた。大きくはないがよく通る、不思議な声だった。
「大丈夫です。こちらこそ、取り乱してしまって」
「いえ、お気になさらず。何か思い悩んでいるご様子だったので…つい」
 え、と思わず声が出る。また顔に出てしまっていたようだ。お母さんから、あんたは何を考えているかすぐに分かるよ、と言われた事を思い出す。しかし初対面の人にも気にされるとは…。そんなに真剣な表情をしていたのだろうか。分かりやすい自分自身に少し呆れ、ため息をつきそうになり、止める。

 少し間を置いて、控えめに、ぱん、と音が鳴る。すこし籠っていて鈍い、手を打った音だった。
「そうでした。私、この街に初めて来たのですが、何処かお勧めのお店や場所がありましたら、教えて頂けますか」
 姿はよく見えないが、丁寧な言葉遣いから悪い印象はなく、会話を続けてみようと思った。街の異様さに戸惑い、誰かと話していたかったからかもしれない。
「うーん……あ、そうだ。美味しい料理を出すお店なら知ってますよ」
 その事については随分長く話をした。あの店はパスタの麺が程良い固さで食べ応えがあるとか、駅に近い店で食べられる、ぱりぱりに揚げた野菜のチップスが乗ったカレーは具材が何種類か選べる上美味しい事だとか。ほぼ私が一方的に話していただけだったが、その人は相槌を打ちながら、興味深く聞いてくれた。お詳しいですね、と言われ少し照れ臭くなった。

 次第に景色の黒色が薄れ、藍色へと変わっていく。ビル群の隙間から段々と薄明るい色が滲み出す。腕時計を見ると、約束の時刻が近付いていた。慌てて席を立つ。そろそろ帰らなければ、と伝えると、その人はまた今度お話しましょう、と言ってくれた。軽く手を振りながら、喫茶店のドアを開ける。

 結局、顔はよく見えなかった。

 帰り道、見慣れた道はひっそりと静まりかえっている。普段は小学生がはしゃぎながら通る横断歩道も、人の声が絶えない商店街も、別の場所のように感じる。人や動物がいる気配はない。信号が赤から青へと変わる。通るものが居なくとも規則的に点灯し、淡々と役目を果たしている。

 時折、遠くから木々のざわめく音が聞こえる。車のエンジン音はもう少し近くで。

 周りの静寂とは逆に、私はいつになく焦っていた。最初は歩いていたが徐々に駆け出した。何故そうなのかは自分にも分からない。ただ、絶対に守らなければいけない約束があることは覚えている。早く着かなければ、不安に押し潰されてしまう気がしていた。何に対しての約束か、物か、人か、そもそも実体のあるものなのかどうかも分からない。はやる気持ちを抑えながら、とにかく走り続けていた。

 何個めかの曲がり道、幾重にも連なりひしめき合う住宅の合間をすり抜けて、大きい通りにさしかかる。歩道が両脇にあり、交通量が他の道路に比べて多い通りだ。もうすぐだ、と思った。足は先へと進んでいた。しかし頭では何処が目的地なのかは見当がついていない。思考と体が一致しない。何かがおかしい。

 どうして私は走っているのか。

 私は何に急き立てられている?

 その場に立ち止まり、思い出そうとする。全速力で走っていたため、堪らず膝に手をついた。見えないものに追われている心地がした。耳に掛けていた髪が、さらりと落ちる。自分の荒い息遣い、上下する肩。やけに呼吸がうるさく感じる。他に周囲で動くものは何一つない。意識を集中するも、記憶には霧が立ち込めている。闇雲に手を伸ばしても掴む事が出来ない。

 俯いたままぎゅっと目を瞑る。数回、目を瞬かせると、足元の水たまりが視界の隅に入った。不定形に切り取られた空は彩度の低い水色だ。敷き詰められた雲がゆっくりと流れ、雲の隙間に青空が所々覗いては消える。淡い光が漏れている。少し強く風が吹き、波紋が水面を走る。緩やかな円を描いて空を撫でていく。ようやく息が整い、落ち着いてきた頃。背後から、池に小さな石が投げ入れられた時の様な、水の落ちる音が聞こえた。水たまりから鳴ったそれではない。辺りに水路も川も無かったはずだ。

 疑問に思い、音のした方向へ、振り向くと、

 四角く大きな、壁があった。自分の背より遥かに高い。広く透明な窓、走る振動で小刻みに揺れる重厚な金属質の箱。うなり声のような音が、タイヤが、地面を擦って辺りを揺らす。運転手が驚き慌てる様子が見えた。逆光を受けて黒色の、巨大な塊の様なトラックが、私のすぐ目の前まで来ていた。

 状況を理解しかけた瞬間、鋭いブレーキ音が静けさを切り裂く。途端、頭の中が真っ白になる。足は釘を打たれたように動かず、目は瞬くことさえ出来なかった。ただ目前のトラックを見ていた。大きな影にすっぽりと呑まれる。ひどくゆっくりとした時間に感じる。視界が揺らぎ輪郭が曖昧になる。立っている感覚が薄れる。黒色が迫ってくる。目は逸らせない。直前までの思考が遠のく。意識が断たれる寸前。銀色の車体の縁が、光を受けて鋭く輝いた、その向こう。視線の先。

 空が水面の様に揺らいでいたのを、私は

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