予感

 けたたましいアラーム音で目が覚めた。僅かな凸凹が見える白い天井と、そこから伸びている乳白色の傘を被った電灯が、見慣れた顔でこちらを見下ろしている。
 勢い良く身を起こす。使わなくなった学習机の上の山積みになった本、クローゼットに入りきらず、引き出しに押し込まれた洋服。カーテンの隙間から射す光が、室内を仄かに黄色く照らしている。窓の外を、雀が数羽鳴きながら飛び立つ。
 朝一番に見る景色はいつも通りだった。先程起きていた事が瞬時に消え、普段の日常が始まろうとしている事に呆気に取られていた。

 あれは、

「…夢?」

 ふあ、とあくびが出た。
「なんだ、夢か…危なかった」
 やけに鮮明な夢だったなあ。寝ぼけた頭で納得し、目覚まし時計を手にとる。時刻は7時半を指している。まだ起きるには早い時間帯だ。

 今日は仕事だが、昼からだから余裕がある。迷わず二度寝を決め込み、枕に向かって倒れこむ。ばふっ、と音が鳴り、光に埃が舞うのが見えた。間を置かず再び睡魔がやってきて、目を閉じる。しあわせな気持ちで満たされ、暖かい布団に包まれて眠りに落ちようとしたその時、
「葵ー!いつまで寝ているの‼︎」
 1階から少し怒った、大きな声が聞こえてきた。驚いて目を覚ます。何やらがたごとと物音もする。
 聞き慣れた声は、きっとお母さんの声だ。せっかく二度寝ができると思っていたが、放っておくとこの部屋までやってきて、掛け布団を剥がされるに違いない。もしかしたら布団と共に天日干しにされてしまうかもしれない。実際にやられたことはないけど。
 また今度にしよう、と緩慢な動作で起き上がる。淡い水色の遮光カーテンを勢い良く開けると、雲ひとつない青空が広がる。朝日がまぶしく、目を細める。

 眠い目をこすりながら階段を降りると、せわしなく足音を立てて、リビング内をあっちこっちへ移動しながら朝の準備をするお母さんがいた。
「あ、葵、おはよう!」
「おはよう」
「今日天気が良いからってね、洗濯機2回目回したんだけれども、もう出る時間になっちゃった……だから、葵、洗濯物干してくれる?」
「ええーー?」
「お願い!」
 と、それだけを言い残して、洗面所の方に行ってしまった。
 朝のお母さんはいつも慌ただしい。もうちょっと早めに起きてやれば良いのに…と思うが、先ほど二度寝を決め込んだ自分がいたことを思い出し、人の事は言えないと気付く。渋々言葉を飲み込んだ。
 テーブル席では、弟の翔太が食パンを頬張っている。
「お母さん、また姉ちゃんに洗濯物頼んでるね」
「そうだねえ、もう私が代わってやった方が良いのか、ね」
 少しからかうような視線を投げてきた弟と話しながら、冷蔵庫のドアを開ける。牛乳を取り出し、円筒型の透明なコップに注ぐ。昨日でペットボトルのアイスコーヒーを切らしてしまったから、今日は牛乳のみだ。コップをテーブル席に置き、翔太の隣、私の指定席に座る。お母さんは忙しいにも関わらず、朝食はきちんと用意する。食パンと、サラダと、ベーコンエッグ。イチゴジャムとブルーベリージャムがあり、マーガリンもある。毎朝用意されるご飯にはありがたみを感じている。
「姉ちゃん、今日は帰り何時になる?」
「んー、終わるのは6時かな。7時前には帰ってくるよ」
「そっか、りょーかい」
 食パンを口に放り込み、飲み込まないうちに席を立つ。こら、お母さんに怒られるぞ、と注意するも、へーきだよ、とあしらわれる。翔太が食器を流しに置いた所で、お母さんが駆けて戻ってきた。
「ほら、翔太、もう学校に行く時間よ! 準備はできたの?」
「やべ、歯みがきがまだ!」
「もー、早くしなさい! 遅刻するわよ!」
 大変だなあ、と思いつつ、フォークを手に取り、サラダを食べ始める。

「じゃあ、葵、よろしくね!」
「ねえちゃん、行ってきます!」
「はあい、行ってらっしゃい」
 2人が出て行った後、バタン、とドアが閉まる。玄関でのお見送りが済むと、家の中は幾分か静かになった。外からは小学生達の元気な声と、駆けていく足音が聞こえた。リビングに戻ると、付けっ放しのテレビでは、交通事故のニュースが流れている。
 今日の天気予報をやってくれないかな、と思いながら席につき、食パンをかじる。
『……町の住宅地で、歩道を歩いていた小学生の列に、乗用車が突っ込み2名が重体、運転手も意識不明の重体とのことです……』
 事故現場の様子が映し出される。電柱にぶつかり無残に壊れた車、黄色い面を翻す規制線の張られた道。生々しい血の跡が、うっすらと道路に付いている。事故に遭った小学生の年は翔太と同じくらいで、少し嫌な気持ちになった。

 けれど、それ以上の気持ちは起こらなかった。遠い町の出来事だ。

 目玉焼きの黄身を割ると、とろりと皿の上に流れ出し、こんがりと焼けたベーコンの上に広がった。

 今日の天気は昼までは晴れ、次第に雲が多くなり雨が降るとのことだった。昼前には家を出るから、早く洗濯物を干さなければ。
  その前に食器を水に浸けておこうと思い、蛇口をひねる。透明な水が出てシンクを濡らす。食器に満たされた水が揺らめくのを見た時、ふと違和感を感じた。あれ、さっきも見た気がする。でもさっきって、いつの事だ?

 首を横に振る。寝ぼけているのかな。そう思い、洗面所に向かう。何度か水で顔を洗うと、目が覚めてきた。黒目がちの瞳が、鏡の中からこちらを見ている。ーーぼさぼさの髪型で。
「うわあ、この状態で庭に出なくて良かった……」
 ぼやきながら、ヘアアイロンの電源を入れる。

 ***

「倉阪さぁん、どうしたんですかぁ?」
 甘ったるい声で呼びかけられ、はっと我に返る。手に持っていたスナック菓子の袋を落としてしまい、慌てて空中で受け止める。
「ぼーっとしていたみたいなんで……。大丈夫ですかぁ?」心配そうな顔付きで、佐藤さんはこちらを覗き込む。
「大丈夫、ちょっと考え事をしてただけだから」
 少し笑って、答える。
「そうですかぁ?」
 すいませーん、とお客さんが呼ぶ声が聞こえて、はぁい、と彼女は返事をし、ぱたぱたと走ってレジに向かう。
 佐藤さんは高校生で、アルバイトとして働いている。舌足らずな話し方をする所が少し気になるが、人懐っこい雰囲気を漂わせているせいか、あまり嫌な感じはしなかった。くりくりとした目と、可愛らしい見た目から、チワワみたいな子だなと私は思っている。本人にはまだ伝えていない。
 私は手に持ったままのスナック菓子の袋を、棚に並べ始めた。袋と中身がこすれ合い、袋を棚に置くたびに微かな音が鳴る。そう広くはない店内には私と、佐藤さんと、お客さんの若い男性1人だけだ。店長は裏で作業しているらしい。

 さて次は何をするかな、と考えていると、お客さんがレジを済ませて出て行った。ありがとうございましたぁ、と間延びした佐藤さんの声が聞こえた。

 入れ替わりに入ってきた人は、常連客のおばあさんだった。
「いやだわあ、急に雨が降ってきちゃった」
 見ると、いつもはいているスカートが濃い色に変わっている。持ってきた傘からは雫がぽたぽたと垂れている。
「わ、大丈夫ですかぁ? これ、どうぞぉ」
 と言って、タオルを差し出す。
「まあ、彩ちゃん、ありがとう。さっきまで小雨だったんだけど、いきなり大雨になってねぇ。」
「ええ、雨ですかぁ。嫌だなぁ」佐藤さんが眉を下げて相槌を打つ。
 いきなりだものねぇ、と言いながら、おばあさんは受け取ったタオルで腕や肩を拭いている。
 外を見ると、先程までの晴れ模様が嘘のように、黒色の雲が垂れ込めていた。切れ間なく降る雨粒がアスファルトの道を叩いていて、店の前の道を自転車に乗った人が急いで通り過ぎた。車輪の通った跡を水飛沫が勢い良く飛び散って、白く煙った道路を車のライトが照らす。駐車場の大きな水たまりは、波紋で乱され辺りの物を歪めて映している。まるで別世界のような風景の変わり様だった。
 おばあさんは帰り際に、
「これからどんどん雨が酷くなるらしいから、あなた達、帰りには気を付けてね」
 と言い残し、大雨の中を帰っていった。

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