晴れる前に

 明度の低いグレーの空に、僅かに橙色の光が射し込んでいる。遥か先から届く光は弱々しく、頭上の厚く垂れ込めた雲は、色を変えずに居座っている。街並みの向こうには穏やかな晴れ間が広がっているというのに、こちら側は白い線が切れ目なく落ちてくる。
 一日の授業が終わり、殆どの生徒が帰った少し後の時間。狙ったように降ってきた雨だった。

「雨、止みそうにないねぇ」
 おっとりとした口調で、隣に立っている背の高い彼は言った。
「そう、だね」
 聞こえるか聞こえないかぐらいの微かな声で、私は答えた。
「傘、持ってきてないなあ」
「わ…わたしも」
「折り畳み傘、持って出るべきだったよ」
「うん…」
 今日の降水確率は30%以下だった。傘を持つかどうかそれぞれの判断に委ねられる数字。お天気お姉さんの笑顔は晴れやかだったというのに。雨脚はひどくなる一方だ。
 困った状況だというのに、彼、佐々木君は落ち着いていた。というより、慌てている所を今まで見た事がない。あわてず、騒がず、のんびりと。いつもどおりだ。

 と、そうだ、今この状態をどうにかしないと。

「置き傘…アトリエとか、ロッカーにないかな」
 一筋の希望が見えて、言ってみた。が、「ううーん、僕置き傘もしてないんだよなあ。それに、最近掃除をしちゃったから余分な傘は置かれてなかったはず……あ、きのちゃん、ロッカーに傘置いてあるかな?」
「う……ごめんなさい、ないの」
 微かに届く光もいつの間にか消え、辺りの色は沈んでしまっている。薄暗い中激しい雨音が響き、跳ねた水が頬に当たる。人影は見当たらない。時折車が煙った風景を裂いて走り抜けて行く。

 一番近いバス停まで走っても5分、新しく傘を買うにも、売店はもう閉まっている時間だ。学校からそう遠くない場所に最寄りの駅があるのだが、この豪雨の中ではびしょ濡れになることは避けられない。
「濡れるの覚悟でバス停まで走るか、アトリエに戻って止むのを待つか…どっちかかな…」
 空を見上げながら呟いた声は、雨粒に当たって落ちていく。
「僕はともかく、きのちゃんが濡れちゃうのはちょっとなあ。女の子なんだし、冷えたら風邪ひいちゃうよ」
「……!? だ、だめだよ、佐々木君も濡れちゃ駄目!」
 さらりと言われた言葉に、何故だか恥ずかしくなってしまい声が大きくなる。
「そうだよねぇ。じゃあ、ちょっとアトリエに戻って止むのを待とうか」
「う、うん、そうしよう」
 首を縦に振る。多分いつもより倍の速さで。落ち着け私。
 小さく深呼吸をしていると、不意に佐々木君が「あ」と声を上げた。

 何だろう、と思い後ろを振り返ると同時に、バサッ、と傘の開く音が聞こえた。透明な傘越しに見えた水玉柄のシャツとタイ、赤いフレームの眼鏡に映える黄色い髪。一目見て誰だか分かった。
「上町くん」
「傘、これ使って良いよ」
 佐々木君の隣に来て、開いたままの傘を差し出す。私は身を乗りだしあわてて聞く。
「えと、上町君はどうするの……?」
「自分は折り畳み傘持ってるから」
 素っ気ない返事。けれどはっきりとした口調で物事を言う彼の事は何故か嫌いにはなれなかった。切り揃えられた髪が、湿った風にふわりと揺れる。

「あれ、この間それ壊れたって言ってなかったっけ」
「……………」
 指摘され、黙り込んでしまった。こういう場合表情も対して変わらないため、どう思っているのかは分かりづらい。しかし少しだけ、こちらを見ていた視線を逸らした。
「傘、これしか持ってないでしょ」
「…………………」
 重ねた問いかけに言い返さない所を見ると、図星だったらしい。完全にそっぽを向いてしまった。やっぱり、と言葉を零す。佐々木君はお見通しらしい。
「じゃあ、これは3人で一緒に傘に入って帰るしかないね」
「「え」」
 上町君がこちらを見る。彼と全く同じ反応をしてしまった。最も、私の声は届いていないと思うのだけれど。

 いや、それよりも、今、大変な事を聞いた気が。
「3人はさすがに入れないだろ、濡れるぞ」
「だってこのままだと、ずぶ濡れになりながら1人で走って帰るでしょ。いくら家まで近いとはいえ、それには反対だなあ。ね、きのちゃん」
「え、う、うん、絶対駄目」
「”絶対” って言ったくらいに僕らの意思は固いよ上町くん」
 やんわりとした言い方だけれども、譲らない様子。私も同意だ。口を堅く結んで、じっと視線を送る。無言の時間、雨粒が地面を叩く。風に千切れた葉っぱが数枚、こちら側に吹き込んでくる。数分後、はぁ、とため息が聞こえた。
「……分かったよ、一緒に帰ろう」
 2人で顔を見合わせる。よかった、と目で相づちを打つ。あれ、何か大切な事を忘れているような。
「但し、佐々木が傘持てよ。背高いから」
「うん、了解ー」
 そうだ、皆でひとつの傘に入るという事は……相合傘……!? ︎女の子同士ならあるけれども……しかも、か、上町君とも?
 気付いてしまって、仄かに顔が赤くなる。いや、大した事はないはず、皆なら怖くない。などと自分に言い聞かせている内に、傘が掲げられる。

 先程より雨の勢いが弱まったようで、私の声がかき消される心配は無くなった。

 歩き慣れた道を、3人でゆっくりと進む。坂道に用心しながら、友達の話や、昨日買い物に向かう途中で出会った猫の話など、他愛ない雑談をする。傘の下だけ肌寒さは和らいでいるように感じる。
「そういえば、上町くん、僕が帰るって言った時、もう少し残るって言ってたよね。割とすぐ来たけれども……何か用事でも思い出したの?」
「…そう、そんな所」
 曖昧な返答だった。彼は目を見ずに話を返す事がたまにあって、そういう時は決まってはっきりしない内容になる。じっと目を見てみるが、横顔から考えは読み取れず、薄く半透明の壁を感じるのだった。ぼんやりと浮かび上がる人影のみでは、表情まで見えない。探る事を拒む雰囲気が言われずとも感じ取れる。私には些細な質問をひとつ投げかけることもできそうにないと、視線を落とす。

 靴に水が染み込み、色が変わってきている。言い知れぬ不安が足元を掠める。

「あ、晴れてきたよ」
 顔を上げる。佐々木君が指す雲の向こう、じんわりと光が滲んでいる。爽やかな風が吹き、黒くなっていた雲は淡いグレーとなり流されていく。我先にと、太陽から遠ざかっていき、また別の場所へと向かっていく。追いかけっこをしているみたいだ。傘の上の水滴が光を反射し、星空のように煌めいた。
「学校から離れてそんなに時間が経ってないんだけど」
「まあいいじゃない。3人で傘入るなんてそうそうないよー」
「うん、これ、貴重だと思う」
「僕の中では相合傘の最多人数記録を更新したよ」
「わたしも」
「2人が良かったなら、まあ、いいか」

 そう言って、上町君はちょっと笑った。私達も笑う。

 やがて穏やかな橙色が辺りを照らし始める。そろそろ雨は止むだろう。雀が鳴いて、空高く飛んで行った。

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