店長に見送られて店を出る。傘の表面を、水が滝のように伝って流れてくる。腕時計は6時を指している。

 段々雨が酷くなってきていた。予報より降水量が多い気がする。土砂降りの雨の中で、ズボンや靴は濡れ、すっかり色が変わってしまっていた。
 雨宿りできる場所は、と探していると、帰り道の途中にある駅前のコーヒーチェーン店が目に入った。体は少し冷えていたし、コーヒーで暖まるのが良いかもしれない。急いで目の前の横断歩道を渡る。

 自動ドアをくぐると、店員さんの元気な声が出迎えてくれた。レジでコーヒーを1杯頼み、トレイに乗せて辺りを見回す。店内にはそれなりにお客がいた。パソコンを操作している人、本を読む人。楽しそうに話をしている人。それぞれの時間を過ごしているようだった。
 窓際のカウンター席が丁度空いていたので、椅子を引き寄せて座る。ここなら外の様子がよく分かる。雨が弱まり次第、帰らなければならなかった。あまり帰りが遅いと、お母さんも翔太も心配するだろう。外では色とりどりの傘が、目の前の横断歩道を渡っている。信号のリズムによって人や車が流れては、止まることを繰り返す。
 ぼんやりと景色を眺めていると、
「あ、先日の」
 不意に出入り口側の方から、声がした。

 見ると、見知らぬ人が立っていて、軽くお辞儀をしてきた。手に持った焦げ茶色のトレイには、暖かな湯気が立ち上るカップが乗せてある。私はつられてお辞儀をする。
「喫茶店ではお世話になりました。まさかまた出会えるとは」
 微笑んで親しげに話しかけてきたその人は、中性的な顔付きをしていた。白いシャツの上からベストを着ていて、黒のスラックスをはいている。胸元には大きめの、ストライプの入ったリボンを付けている。靴はよく見るとハイヒールで、紅色の靴裏が全身白と黒色の格好の中で目立つ。髪は後ろで、白いリボンで一つに結ばれているようだ。容姿からは男性なのか女性なのか、判断がつき難い人物だった。はあ、と中途半端な返事をする。返答に困ってしまった。

 第一に、私はこの人を知らなかった。
「……あの、私、あなたと何処かでお会いしましたか?」
 もしかして私が忘れているのか、と思い探りを入れる。そうだとしたら大分失礼だ。
「はい、つい最近」
 相手はすぐさま返答した。
 最近、と頭の中で必死に思考を巡らせる間に、その人は私の隣の席に着いた。手元のカップから、ブラックコーヒーの香りが漂う。

「覚えていませんか」
 和やかな口調で聞かれて、戸惑ってしまう。そんなに前のことではないはずだし、会って話をしたのなら忘れるわけはない。この外見なら忘れる事はないと思うけれども……。喫茶店。けれど最近、行った覚えは、ない。
「先日、貴方に教えて頂いたお店に行ってみたのですが、何処の料理も良く、感謝しています」
「ど、どういたしまして」
 しばらく相槌を打ちながら話を聞いた限り、私はこの人に色々なお店を紹介したようだった。ガイドブックに載るような有名店から、地元の人しか知らないような、路地裏のお店まで。しかしこれだけの情報を交わしているにも関わらず、この人の事が思い出せなかった。

 ふと思い当たり、話題がひと通り落ち着いた所で質問をする。
「あの、あなたのお名前は?」
 名前を聞いたら思い出すかもしれない。そう思い聞いてみた。
「ああ、そういえば申し上げていませんでしたね。私の名前は***と言います」
「? ……すみません、もう一度仰っていただけますか」
 思わず聞き返す。
「***と、申します」
 何故か、名前の部分だけが雑音混じりになってしまい、聞き取る事が出来ない。街中の喧騒は、音自体は聞こえるのに、個々の内容は頭に入ってこない。それとよく似ていた。しかしこの距離で話しているというのに、突然聞き取れなくなるというのは、おかしな話だった。

 相手は明瞭な声で発しているのに、大事な部分だけすっぽりと抜け落ちてしまっている。もしかして、耳が悪くなったかな、と思っていると、
「あ、お気になさらず。慣れていますから」
と、ひらひら手を振りながら、笑って返された。慣れている?そんなに聞き取りづらい名前なのだろうか。
「そういえば、この店にはよくいらっしゃるのですか」
「いえ、そこまででは……今日は雨が酷くて、雨宿りしようかと思って入ったんです」
「確かに。暫く止みそうにはありませんね」
 *と名乗ったその人は、外の景色に目を移す。*の組まれた指先には、黒く塗られた爪が並んでいて、耳には控えめなピアスが付けられている。シャツやスーツにはシワや埃一つ付いていない。その様子を見ていて、私はふと、違和感を感じた。

 外は大雨だというのに、服はどこも濡れていなかった。靴にも雫は付いていないし、傘を持っている訳でもなさそうだった。本降りの雨の中を、全く濡れずに来られるものなのだろうか?
「どうしました?」
 向き直った*が私に問いかける。
「いえ、何でもないです」
 落ち着くために、コーヒーを一口飲む。口の中に、暖かな薫りが広がった。
 言い知れない不安が募ってきていた。普段人と話していると、どういう人かが分かってきて、打ち解けていくはずなのに、その兆しが見られない。

 余計に分からなくなってくる。この人は、一体何者だ?

 私がそっと一瞥すると、少しの間だけ目が合った。
  一瞬だけ視線が泳いだ、気がする。

 *は僅かに口を開けた後に口を結び、ややあって覚悟を決めたように、再び開いた。
「ああ、そういえば。伝えようと思っていた事があるんです」
 先程の間を取り繕うように、こちらに体を向け、真っ直ぐに見つめてきた。瞳は真夜中の空のように、紺色を纏い黒く澄んだ色をしている。瞬きと共に長い睫毛が揺れる。
「貴方、急いで向かった方が良いと思いますよ。」
 落ち着き払った様子で、次に言われた言葉は耳を疑うものだった。

「急がないと、」

ー死にますよ。

ーえ?

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。
 *はにこりと微笑んだ、
と、同時に何かが割れる音が店内に響いた。
「も、申し訳ありません!」
 音のした方を見ると、店員さんが誤ってコップを落としてしまったようだった。先輩と思しき人物がやって来て、割れた破片を持って来た箒とチリトリで、手早く片付けている。

 そういえば、と思い隣を振り返る。

 しかし、そこには誰も座っていなかった。コーヒーカップも、人のいた形跡すら見当たらなかった。

 目を離したのは数秒だ。

 何かの間違いでは、と思い立ち上がる。椅子の配置に乱れた様子はなく、辺りを見回しても、念のためトイレを確認しても居なかった。この間に、店の外に出て行ったのだろうかと、途方に暮れてしまった。元いた席に腰を下ろし、私は暫く誰もいない席を見つめていた。

 雨脚は弱まっていた。傘を差さなくても、どうにか歩ける程だった。早足で家路を急ぐ。
 先程のコーヒー店での出来事が、ずっと頭にこびり付いていた。結局誰だったのかは、分からないままだった。現れたと思ったら消えてしまい、翻弄されたまま終わってしまった。横に首を振り、忘れる事にする。幻でも見たのだと、納得できないがそういう事にしておく。
 駅前から道なりに歩いていき、交差点のある角を曲がると、馴染みのある通りに出た。車の通りはあるが、歩道がきちんと整備されていて、家に向かって道なりに歩くと、緑の多い児童公園がある。小学校の通学に使っていた懐かしい道だ。見慣れた道も今は青色に薄暗く、道沿いの家からは窓の黄色い光が漏れている。どこかの家からは夕飯の匂いが流れてきていた。
 小走りに、家への道を急ぐ。小さな水たまりをいくつも飛び越す。雨によって濡れた道路には、住宅地や信号の明かりが反射して輝いている。
何処かで見た風景だな、と思った。

「ーあ!姉ちゃん!」
 道路を挟んだ向かい側から、聞き慣れた声がした。思わず足を止める。
「…翔太!どうしたの?」
「姉ちゃんいつもより帰り遅いからさ、どうしたのかなーと思って…」
 翔太がたん、と、ひとつ足を踏み出す。左手には脇道から合流する細い道。地元住民しか使わないような、坂の急な道だ。しかし、今は車のエンジン音がやけに近くで聞こえた。音は小さくならず、寧ろ大きくなってきていた。減速する気配がない。大通りの道から聞こえているのかと思い、ふと向きを変えようとしたその時、

 細道から飛び出してきたのは、
 銀色の車体を揺らす、大きなトラック。

 瞬間、こちらに駆け寄ろうとした翔太の動きが止まる。運転手の青ざめた表情が、薄く濁ったガラスを通して見える。ブレーキが踏まれ、甲高い音が、住宅地の静けさを引き裂いた。動きがひどく遅く感じる。

 目の前で起きようとしている事態が信じられない。嘘だと思いたかった。
 しかし、このままでは翔太は、轢かれてしまう。最悪の場合が頭を過ぎる。

 ふと、朝の夢が思い出される。
 水たまり、信号、横断歩道、道路、子どもたち、公園、トラック。轢かれる直前の記憶。倒れながら黒色に狭められる視界。思い出す。誰かがこちらを見ていたこと。白いワンピースを着ている女性。長い髪が紺色の軌跡を描いていた。泣きそうな顔をして立っていた。よく知っている人物。

 あれは、誰だ。誰だったか。毎朝、見ている。不機嫌な表情と乱れた髪。紺色の瞳。

 そうだ、間違いない。見間違えるはずがない。あれは、

 ーー私だ。

 夢の視点がぐるりと変わる。私は私自身が轢かれるのを見ていた? 違う、そうではない。視点が普段よりぐんと低くなる。薄れる意識の中、伸ばした腕が空を切る。橙色の袖が目に映り、パーカーの紐が揺れる。運動靴は脱げ、宙に舞う。少し離れた場所でこちらを見ている、驚いた表情の私は、誰かの名前を叫んだ。悲痛な叫び声が耳についた。

 おぼろげだった断片が、線で結ばれる心地がした。思考がぴんと張られた糸のように、何をすべきかが明瞭に見渡せた。

 迷う暇は無かった。地面を力強く蹴り、手をめいっぱい伸ばし、できる限りの力で翔太に飛びつく。車体が2人諸共に触れようとする間近、ぎりぎりの所で足先がトラックの進路から外れる。掠めた拍子に風が髪を揺らした。固まったまま動けなくなっていた翔太は抵抗せず、私の腕に抱きとめられたまま、濡れた歩道の上に、仰向けに倒れ込んだ。直後に、ひどく高い、叫ぶような音を出しながらトラックは止まった。近くを歩いていた人が駆け寄ってきて、辺りの家では窓が開かれる。ざわめきが私たちを中心にして広がっていく。
 横倒しになった、雨で霞んだ視界に誰かの足元が映る。大丈夫か、怪我は、と周りからくぐもった声が聞こえる。ぼんやりとした意識の中にいたが、状況に気づき、急いで起き上がる。片腕に痛みが走る。着地した際、肘をコンクリートの地面で腕を擦りむいたようだ。じんわりと血が滲む。怪我には構わず、倒れている弟に呼びかける。
「翔太、怪我はない⁉︎」
「う、うん」
 翔太は軽く頭を打ったようで、後頭部をさすりながら身を起こした。
 助走を付けなかったため、押し切れるか不安はあったが、なんとかトラックと接触せずに済んだようだった。
「よかっ、た」
 語尾が震えた。吐き出した息と共に、涙が滲み出てきた。堰を切ったように次から次へと、ぼろぼろと落ちてきて止まらない。思い出したかのように、今更足が震え出した。翔太は驚いて、大丈夫か、姉ちゃん、と声をかけてくる。集まってきた人達を見渡しながら、私の顔を見ている。
濡れてしまい乱れた髪の毛が、首筋に張り付く。安堵感と、すぐ目の前まで迫っていた恐怖が頭の中でない交ぜになり、どうしたらいいか分からなかった。体の底から込み上げてくる熱は気持ちが悪く、堪らず俯く。誰かが通報したらしく、サイレンの音が遠くから聞こえる。小雨は音もなく、辺りを静かに濡らしていた。

***

 ざり、ざり。
 砂を擦り、かき分ける音が響く。

 この部屋は白ばかりで、一見すると何も見えない。物の境界線が薄く、淡く落ちる影が無ければ、自分の立っている所すら分からなくなりそうだ。辛抱強く目を凝らしていると、徐々に物の輪郭が現れてくる。壁の境目と、窓と、本棚。進行方向の数メートル先に、誰かがいると気付き歩みを止める。木製の白く塗られた机を挟んだ向こう側の椅子に、その人は座っていた。手元の雑誌に目を落としていて、俯きがちで顔はよく見えない。背景に溶け込むように、その人も真っ白なトレーナーとズボンを身に着けていた。ただ、髪の黄色だけが、この空間の中では目立っていた。音もなく吹く風に、ふわりと微かに揺れている。

「こんばんは」
 声を掛けてみるも、特に反応はない。ぱらりとページをめくる音が代わりに響く。
「貴方、助けには行かなかったんですね」
 手が止まる。次いでゆっくりと顔を上げ、こちらを見るや否や、ぶっきらぼうな返事が返ってきた。細めた目がこちらを睨む。
「何しに来たんだ」
「何って、久しぶりに様子を見に来たのですよ」
 微笑んでそう返す。このやり取りはいつもの事だった。例えるなら挨拶に近い。
「赤の他人の事だろ、自分には関係ない」
 そう言いながら、再び視線を落とそうとする。その前に、私は言葉を重ねる。恐らく彼の興味を引くであろう言葉をつなぐ。
「関係は、ありますよ」
「は?」
 顔を上げる。試みが上手くいったようだ。
「事故に遭いそうになったのは、ーー貴方と同じ夢を見る人です」
「そんなわけが、」
「信じられませんか?」
「……それはそうだろ、今までに会った事がない」
「興味、ありませんか?」

 私は柔らかく質問を投げかける。
 彼は視線を脇に逸らす。

 無音状態の時間が訪れる。ここでは私達以外から発する音は何もない。自身の心臓の動く音が聞こえる。耳鳴りがしてきて、長く居ると息が詰まりそうだ。 数秒間の思案の末、彼はこちらを見て言う。

「……まあどちらかと言えば、ある」
「それは良かった」
 私は彼に気付かれないよう、小さくため息を漏らす。傍らにある椅子の背もたれに手を置き、それを支点にくるりと一回転し、腰を降ろす。微かに木の軋む音が鳴る。
「良かった?」
 向こうは怪訝そうな顔をしている。昔からの付き合いだが、大人になっても作られる表情に昔の面影はあるものだな、と思う。脚を組み、重ねた両手を膝の上に置く。
「近々、お会いする事になると思いますよ。そう遠い話ではありません」
 なんだって、と疑問を呈す彼。徐々に声が大きくなってきていた。
「*、どういう事だ」
 鋭い視線がこちらを刺すが、構わず私は言葉を繋げる。向こうが耳を傾けている間に、伝えられる情報は渡しておく。機会を逃すと聞いてもらえない事が多いためで、長い付き合いの末の行動だった。

「まあ、貴方の方がこの事に関しては先輩になるのですから、宜しくお願いしますね。上町君」

 

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