夕暮

 小さく、水の音が聞こえる。
 岩や苔の合間をさらさらと流れる川音や、砂地を撫でて引き返す波の音ではない。配水管を通って落ちていき、金属を叩く音。自然物が人工物に反抗している。私は真っ暗な空間の中で、息を潜めて聞いている。たゆたって仰向けに、脱力した様子でそこにいる。やがて頭上の黒色が赤みを帯び、薄明るくなっていく。水音は次第に遠ざかる。空間は揺らめいて、白く眩しい光が増す。

 水面へと向かい浮上する感覚によく似ていると、ぼんやりとした思考の中でそう思った。

 まぶたを開け、程なくして目が覚める。窓の外から、微かに雨の降る音が聞こえ、窓を時折叩いている。部屋は静かな気配を漂わせていた。弱々しい光が、室内の青みがかった影色を、仄かに明るくする。
 いつもより早い時間に起きてしまった。携帯のボタンを押して時刻を見ると、まだ5時ぐらいだった。寝返りをうち寝ようと試みるも、何故だか頭が冴えてしまっていて、上手く寝付けない。仕方なく布団から抜け出し、部屋のドアを開ける。薄茶色の単調な木目に足を1歩踏み出すと、廊下の床が軋んだ。
 翔太が事故に巻き込まれかけてから、1週間が経っていた。あの後、警察に話をし、店長やお母さんにとても心配された。そして翔太は事情を聞いたお母さんに怒られていた。無事で良かったと、泣きながら言っていた。事故の翌日は休んだが、本人は何でもないような素振りで、普段と同じように学校に通っている。私もバイトへと向かい、普段通りの日常へと戻っていった。けれど、私はまだ、あの日の出来事が忘れられないでいた。

 お母さんも翔太も寝ている時間、ひっそりとしている台所に向かう。インスタントコーヒーの粉をマグカップに入れ、やかんに水を入れる。コンロのスイッチを回すと、切れ切れの音を出した後、勢い良く炎を上げる。
 店で出会い、忽然と消えた*という人物が、何者だったのかは分からないままだった。あれ以来、会えてはいない。長い睫毛に墨色の瞳、穏やかな眼差しが思い出される。あの日初めて会ったはずなのに、以前何処かで知り合った気がしていた。辿ろうとしても、道筋は途絶えてしまい、手がかりは見つからない。
 記憶の片隅にあるのに、どこからやって来たものかが分からず、持て余してしまっていた。気付いたら、知らず知らずのうちにそこにいた。いくら自分自身に問いかけても、答えは出ないままだ。ずっと頭の中で引っかかっていて、忘れられないでいた。
 やがて、銀色のやかんが甲高い音で鳴く。私はあわてて火を止めた。

***

 暖かく、柔らかい風が髪を揺らした。すこし擦れた、ローファーのかかとを鳴らして歩く。朝方の雨は上がって、雲ひとつないパステルカラーの青空が広がっている。足取りは軽い。黄緑色の葉っぱが空を撫でて、きらきらと光を振りまいている。ちいさな横断歩道で信号待ちをしていると、とんとん、と肩を叩かれた。振り向くと、突き出された華奢な指が頰に当たる。わ、と思わず声が出てしまった。
「おはよう、彩音!」
「もう、光里ったら!」
 わたしは頬を膨らませて答える。光里は白い歯を見せて、いたずらっぽい笑みを浮かべる。ふわふわとした髪を揺らして、隣に走り寄ってきた。一緒に並んで歩き始める。
「彩音、いっつもひっかかるんだもん。気を付けないとダメだよ〜」
「もー、次会った時は、彩音からもお返しするからね?」
「りょーかい、受けて立ちます」
 真面目な顔をして返されてしまった。しかも敬礼といっしょに。思わずわたしは吹き出してしまう。
 光里は、わたしの親友だ。

 教室の窓側、前から3番目の席。
 明るい日が射すその場所が、わたしの席だ。
 日に焼けて古くなった机には、鉛筆で描かれた誰かの落書きの跡がついている。椅子を引き出すたびに、大きな音がするのがちょっと嫌だな、と思ってる。お気に入りのストラップをたくさんつけた、スクールバッグをその上に置く。ななめ前の席、自分の席に光里はバッグを置くと、その前に座っている清水くんに声をかけた。彼は数学の教科書とノートを開いて、何やら勉強していたようだった。手を止めて振り返り、おはよう、と返した。

 清水くんは学年内で上から数えた方が早いくらいに、頭が良い人だ。だからと言ってつんけんとした性格のひとではなくて、誠実で話しやすかった。わたしも何回か話した事はあったけど、光里から声をかけることもよくあって、最近は一緒にいる事が多くなった。清水くんと話す光里は、なんだか生き生きとしてみえた。なんとなく、わたしたちは一緒にいることが多くなった。

 チャイムが鳴って、お昼休み。皆それぞれに机を寄せ合ったり、売店に向かう。中庭のベンチでお昼を食べる人もいて、皆のびのび自由に過ごす。カバンからお弁当の手提げと水筒を出して用意していると、光里が話しかけてきた。
「彩音、お昼どこで食べる?」
「どうしよっかな。今日はお母さんに作ってもらったお弁当があるから、外で食べたいかなぁ」
「確かに、天気良いもんねぇ。あ、そうだ! 屋上で食べない?」
「え、屋上って、入れるんだっけぇ」
 光里は少しだけ悪そうな顔をして、
「実は、この間行ってみたらドアの鍵が開いててね。何日か様子を見に行ってみたんだけど、大丈夫そうだったから行ってみない?」
 と、大胆な提案をしてきた。
「んーー……。先生に見つからないかな? ちょっと心配だなぁ」
「そん時はそん時で、どうにかなるでしょ!」
 ふん、と胸をはって得意げな顔をして言う。
「ええー、光里、勇気あるなぁ」
「まーまー、今まで何度も行ってるけど全然見つかってないし、大丈夫だよ! 今回は協力者もいるし」
「協力者?」
 私は首を傾げる。すると、教室の後ろのドアが勢い良く開けられた。何事かと、教室中の人たちの視線がそちらに向かう。そして、そこにいたのはーー亮介だった。
「あ、わりぃ。うるさくしちまった」
 彼は茶色がかった頭をがしがしとかきながら、ひょこっと首だけでお辞儀をした。そしてまっすぐわたしの所に歩いてきて、嬉しそうに言った。
「彩音も屋上で食うか?」
「え、もしかしてぇ、亮介が共犯ってこと?」
 目をぱちぱちさせながらわたしが言うと、光里は微笑みながら首を縦に動かした。なんだか、逃げる隙がない。というか、選択肢がもうすでに一つしかない気がする。
 そうだ、清水くんは、と助けを求めて席を見てみると、姿はなかった。教室を見回してもいない。これは観念するべきか…と視線を戻すと、2人が揃ってにーっと歯を見せて笑った。

 錆び付いたドアを開けると、叫ぶように軋む音が鳴る。途端、風が吹き込んできて、思わずわたしは目をつぶる。
「わ、いい天気ー!」
 光里の無邪気な声が聞こえる。目を開けると、広がる住宅街と、大きな青い空が待っていた。雲はほとんど無くて、太陽の光がまぶしかった。
 初めて見る景色に見とれていると、「彩音、こっちこっち!」と呼ばれる。呼ぶ声のする方を見ると、ひらひら手のひらを振る光里と、亮介とーーなんと、清水くんがいた。
「え、清水くん⁉︎」
 何やら本を読んでいた彼は、こちらを振り向く。なんでもないかのように、やあ、と言って片手を上げた。大きな手が光を受けて白くみえる。
 所々雑草やら苔やらが生えた屋上のコンクリートに皆は座っていて、私もその場所に駆け寄る。光里は「スカートが汚れるといけないから」とわたしにタオルを差し出した。準備がいい。もしかして前々から計画してたのかも。借りたタオルを丁寧にたたんで置き、その上にお姉さん座りで座る。
「実は前から憧れてたんだー、屋上で食べるの」
 光里はわくわくした様子で言いながら、側に置いてあったカラフルなお弁当包みから、小さめのお弁当箱を取り出す。
「漫画とかの読み過ぎじゃないかなぁ」
「でも、いつもとちょっと違う感じで良いよな」
 まあそうだね、と清水くんが亮介の話に相づちをうつ。なんだか見た目が正反対な2人が一緒にいるのは、不思議な感じだ。
「さてさて、ではみなさんっ」
 光里のかけ声を合図に、
 ぱん、と手を合わせる音が鳴る。
「いただきまーす」
 それぞれのお弁当のふたが開けられた。

 お喋りしながらお昼休みは過ぎて、そろそろ戻ろうか、となった時のことだった。わたしは皆よりちょっと早く支度が終わり、携帯のメルマガをチェックしていた。そろそろ終わったかな、と思い顔を上げると、3人が何かひそひそ話をしていた。
「どうしたのぉ?」
 と声をかけると、亮介がばっと勢いよく振り向いて、続いて光里と清水くんがこっちを見た。
 なんでもねえよ、と亮介から答えが返ってきた。今、なにか手元に隠したような気がするけどな。見間違い?
「さ、戻らないと!」
 と、光里がさっと立ち上がって言った。見ると、時刻は12時55分。
 あれ、結構危ない時間では?
「やべえ、次音楽室に移動だった!」
 と亮介が慌てて、飛び出していった。僕たちも急ごう、と清水くんに促されて、わたしたちも後を追う。
 何を話していたのかはうやむやのまま、お昼休み終了のチャイムが鳴る。

 その日の後、何度か3人がひそひそと何かを話している場面に出くわした。頻繁ではなくて、たまに。朝早くとか、放課後とか。私が話に入ろうとすると、決まってみんなは驚いた顔をして、なんでもないよ、と言うのだ。その度にわたしは首を傾げる。
 だってこんな事は4人で行動するようになってから、初めての事だった。登校するときも、光里に会わないこともぽつぽつとあった。亮介に会った時に、何回か聞いてみたけど、はぐらかされて、曖昧なままになってしまった。清水くんに聞いてみても同じだった。

 夕方。つまらない数学の授業が終わり、プリント類をバッグに入れ終わった後に顔を上げると、既に光里も清水くんもいなかった。隣のクラスの教室に見に行ってみたが、亮介の姿も見当たらない。いつもは一緒に帰っているのだけれど。部活か、日直か、それとも委員会の集まり? そんな考えを巡らせながら帰ろうとしたところで、忘れ物に気づいた。筆箱、ないと宿題が出来ない。急いで自分の教室に戻ると、同じく帰ろうとしていたクラスメイトと鉢合わせた。
「あれ、今日は1人?」
「うん、まあね」
 相づちを打ちながらも、わたしは早足で自分の席に向かう。わたしの様子をじっと目で追われているのが、見なくてもなんとなく分かった。まとわりつくような視線を感じる。そういえばさあ、と話しかけられる。やけに大きな声で、ねっとりとまとわりつくような雰囲気を漂わせながら。
「最近、4人とも仲いいよねえ」
 ぴた、とわたしは動きを止める。どこか棘のある言い方だったからだ。
 振り向くと、じっとりとした視線が真正面から刺さった。
「この間、屋上にも行ってたでしょ。良いのかなあ、確か立ち入り禁止にされてたよねえ」
 言葉の端々が私を刺す。耳がひりひりと痛い。
 早々に立ち去りたいと思った。この子といくつか目が合った場面を思い返すと、どれも明るい表情は見当たらなかった。光里と話しているときもそれは変わらなかったし、光里からも何度か嫌みを言われた事があると聞いていた。わたしたちの事が嫌いなようだった。いつからだったかは、はっきりとはわからない。
「じゃあ、また明日」
 わたしは逃げるように教室を後にしようとする。その様子を視線が追いかける。わたしが教室を出るときを見計らうように、話しかける。
「佐藤さんがトイレに行ってる間にね」
 構わず、わたしは廊下へと飛び出す。
「3人で楽しそうに帰るの、見たんだから」
 走り出したわたしに向かって、大声で言われた。


 学校を出るまで、耳鳴りは止まなかった。

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