いつも通る住宅街の道、何故か私は電柱の陰に身を潜めている。

 視線の先にはバイト先の佐藤さんの背中。なんとなく、足取りが重く見える気がする。それを追いかけては隠れ、様子を窺う。我ながらとても怪しい。ストーカーにしか見えないし、こんなこと柄に合わない。向こうに感づかれはしないかと思い、こそこそと様子を見ていると、
「なにしてんの?」
 いきなり背後から声を掛けられ、驚いて変な声が出る。慌てて口を手で塞ぐ。
「ねえちゃん、怪しすぎ」
 振り向くと、呆れた顔の翔太がいた。手にはネットに入ったサッカーボール。友達と遊んできた帰りらしい……が、やけに泥んこだ。夢中になってやっていた様子がよくわかる。
「な、なんでもない」
「なんでもなくないでしょ」
 明らかに挙動不審な様子だったようだ。目が泳いでいるのが自分でも分かる。
「ねえちゃん、すぐ顔に出るから」
 翔太はいたずらっぽい笑顔をして言う。取り繕うことが苦手すぎて自分でもちょっと呆れてしまう。
「で、何してたの」
 そう聞かれて、私は言い淀む。率直に言うのは憚られる。それは、と言いかけて、やめてそっぽを向く。
「翔太には関係ないでしょ、ほら、早く帰りなよ」
 手をぴらぴらと振りながら帰りを促すと、翔太はむっとした顔で言い返してきた。
「なんでだよー、気になるだろ」
「それよりも、その泥んこの状態のままでいたら、お母さんにバレてまずいと思うけど?」
 にやりと笑って言うと、え、と翔太はにわかに焦りだした。
「今日はお母さんの帰りが遅いから、今から早く帰って洗えばバレないと思うけどなあ、良いのかなあ」
 わざと意地悪く言ってみる。どうしよ、と翔太は迷っているようだった。
 洗面所にある石鹸でしっかり洗えば落ちるよ、と言い残して、私は佐藤さんを追う。翔太が呼び止めた気がするが、今は構ってられなかった。

***

 気がかりな夢を見た。

広い河川敷の原っぱ。周りには誰もいない。夕ご飯の匂いはあちらこちらから漂っていて、家の灯りも点いているのに、道には車も人もいない。鳥も飛んでいない。生き物のいる気配が希薄だった。

 私は白いワンピースに身を包んで立っていて、水が地面を洪水のように流れていた。水はさらさらと何処からか流れ込んでくる。川に架かる橋からも滝のように水が流れ落ちていた。けれど音は聞こえない。何故か水自体は澄んでいて、足元の土や草のそよぐ様子がわかる。清流のような水の透明度の高さを異様に感じた。
 ふと原っぱを見渡すと、見覚えのある姿が目に入った。黄色みがかった明るい色の茶髪に、短めの丈に折られた制服のスカート、磨かれた焦げ茶色のローファー。傍らのスクールバッグにはヘンテコなうさぎや犬のストラップがたくさん付いている。たぶん、佐藤さんだ。体育座りをして、前に出した両膝に顔を伏せているので表情は見えない。

 近づいて、ねえ、と声を掛けたその途端ーーすう、と体全体が透け始めた。身体の全体の色が薄まって、だんだんと無色になっていく。予想外の事に焦り、近寄って肩に手を置くと、ぼろり、と身体の一部が砕けた。落ちた欠片は柔らかくて、ゼリーのようにぷるりと震えた。
 思わず私は後ずさってしまう。手を置いた所を起点に、どんどんと崩れていく。欠片は足元の水面に音を立てて沈み、溶けて消えていく。やめて、と意識しないうちに叫んでしまっていた。翔太の時のように、目の前で大切な人や見知っている人を失う瞬間を見るのが怖かった。突然の出来事に驚き、どうすることもできずにただただ翻弄されている自分がもどかしかった。その状況をなんとか変えたくて、すがるような思いで声を荒げた。

 すると、ぴた、と崩壊は止まった。はっと目を見張る。しかし身体の半身は無くなっていて、元に戻ることはない。身体も透けたままだ。佐藤さんはじっと動かない。恐る恐る私は手を伸ばす。私の影は長く伸びているのに、佐藤さんの影は光を含んで淡く、今にも消えてしまいそうだった。先程より夕陽の橙色が弱くなっている。藍色が空の向こうからじわじわと迫っていて、もうすぐ夜がやってくる。指先が触れるまで、あと数センチ。
 と、その時。透明になった佐藤さんが徐に身を起こし、大きな瞳でこちらを見た。私は動きを止めて、息を呑む。

 涙を溜めた目を細めてーー何か一言、呟いた。
 そうして、ふ、と笑った。

 そこで意識は途切れた。

***

 オレンジ色に染まった河川敷を歩く。買い物帰りのおばさんや、散歩をしているおじいさんとすれ違う。連れられて歩く犬の、黒豆みたいなまん丸な目がこちらを見て、すぐさま目を逸らした。

 家まではあと数分。
 光里、亮介、清水くん、次々思い浮かべて、ぐるぐると気持ちが渦を巻く。なんだか耐えられなくなって、道端の芝生に座り込んだ。体育座りをして、顔を伏せる。するとじんわりと涙が出てきた。こころの中でじりじりとせり上がってくる気持ちがあって、涙が眼の奥から押し出されている気がした。
 スカートにぽたり、と涙が落ちる。
 
「あれ、佐藤さん?」
 呼ばれて、私は思わず振り向いた。
 辺りの音は小さく感じていたのに、その人の声だけは澄んで聞こえた。柔らかくも凛とした声だった。
 さらりと風になびく黒髪が視界に入り、薄黄色のプリーツスカートが、光を透かしてふわりと揺れた。
 バイト先の先輩の、倉阪さんだ。

「今日、夕ご飯の当番でね。この近くのスーパーで特売やってたから来たの」
 よく見ると、片手に持ったレジ袋の中には野菜がたくさん入っていた。
 倉阪さんは一歩、私に歩み寄る。

 お母さんの作ったマーマレードみたいな、きらきらとした雲と橙色の光が辺りを照らす。川沿いから涼しい風が吹き、切り揃えられた芝生が、控えめな波を打ち風にそよいでいる。
「何かあったの?」
 心配そうな声音で話しかけられる。
「別に、なんでもないです」
 覆い隠そうとしたのに、言葉の端っこがふるえた。涙がまたにじみ出てきそうで、川沿いの方を向く。

 川の水面は緩やかに夕日を返して、さざ波の白色がきらきらと輝く。鉄橋を一本の列車が通り過ぎて、金属の軋む音が聞こえた。タタン、と小気味良く駆ける音が収まってくると、倉阪さんはよいしょ、と言いながらわたしの隣に座った。
「もし何か悩んでたら、聞くよ」
 視線は合わせないままで話は進む。さざ波の景色に、倉阪さんの声がする。
「言葉に詰まるなら言わなくてもいいし、愚痴みたいなのでもいいよ。形にしたことで落ち着くこともあるし、吐き出すことは悪いことじゃないから」

 そっと掛けられた言葉に、わたしは、ぽつり、ぽつりと、話し出した。
「……最近、友達がひそひそ話をしている時が、多くて。わたしが、入ろうとすると、何となく、避けられるんですよ」
 目前の水面に投げるように、わたしは途切れ途切れの言葉をつなげる。
「昔、幼稚園生のときに、仲間外れにされたことがあって。そのときの原因は、おもちゃの取り合いだったんですけどねぇ。いままですごく仲良かった子に、話しかけてみても無視されてしまって。その時とてもショックを受けて。小学生や、中学生の時も、そういう場面に出くわしたし、された事もありました」
 倉阪さんは静かに聞いている。時々、うん、と相づちが返ってくる。
「怖いんですよぉ。今でも。いままでの事が全部、なかった事になって、作ってきたものがいきなり壊されるのが。友達を疑いたくないけど、もしかして、また、と、考えて、しまって」
 涙がぼろぼろ溢れてくる。オレンジ色の視界が滲む。

 そっか、と倉阪さんが言う。たぶん、こっちを見ている。唇を噛んで堪えてみるも、涙は止まらなかった。
「私も、急な変化に戸惑ったことあるよ。裏切られたこともあるし。
 でもたぶん、それぞれの気持ちとか、考えが行き違っちゃっただけなんだと思ってる。それ自体はきっと悪くなくって、いつもと違う道を行ってみようとか、ちょっと寄り道するようなもので。前もって言われることもあるけど、突然分かれたりする事もあるから、戸惑っちゃうんだよね。
でも、また戻ってきて会うこともあるよ。友達と喧嘩した時とか、もう一生口聞くもんか、と思ったって、次の日にけろっとした様子で話したこともあったし」
「佐藤さんはその友達のこと、信じてるんだよね。それだけ、大事に思ってるってことだよ。その思いは、大切にしてていいと思う」
 倉阪さんはポケットの中を探って、何かをわたしに差し出した。見ると、ミルク味のキャンディだった。
「ま、きっと、大丈夫だよ」

 その時わたしはどんな顔をしていたのかはわからない。

 ありがとうございます、とお礼を言って、受け取ったような気がする。
 大丈夫だよ、と掛けられる言葉がわたしの心をふわりと包んでくれた。本当はどうなのかは分からない。けれど、その優しさにまた泣いてしまう。背中をさする手があったかくて、わたしの頭の中を占めている、尖って刺さっていた不安な気持ちが、溶かされてきれいに丸く収まっていくようだった。

「なんだかすみません、ありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げると、倉阪さんは、
「そんな、お礼言われるほどじゃないし」と照れながら手を振った。
 じゃあ、また明日ね、と綺麗に笑って去っていった。青色の夜が辺りを染め始めて、オレンジ色がゆるやかに退いていく。

 わたしは振り返って、倉阪さんとは反対の方向に歩き出す。
 きっと大丈夫だと言い聞かせて、夕暮れの道を進んでいった。

 あとで、光里や亮介、清水くんが私を避けていた理由が分かった。
 いつものように帰ろうとして、校門を抜けると、今日は用事があると言って先に帰ったはずの光里がいた。
 え、なんで? と聞くと、にこっと笑いながら、いいからいいから、とわたしの手を引いて走り出した。されるがままに、わたしたちは走る。かばんに付けたストラップが、賑やかに振り動かされる。
 光里の家、部屋の扉を開けるとーーぱん、と賑やかな音がして、色紙が降って私を迎えた。そこに居たのは、クラッカーを持った亮介と清水くんだった。
「彩音、誕生日おめでとう!」
 ぽかんとした様子で、私は部屋を見回した。カラフルな飾り付けと、手作りのケーキ。どちらも手が込んでいて、前々から用意していたのだとその時分かった。それぞれ3人から、丁寧に包まれたプレゼントも貰った。
「3人で協力して作ったんだよ」
「ケーキなんて人生で初めて作ったな」
「彩音にバレないようにするの、上手くいってたかな?」
 とわいわい話している。わたしは安心して、また泣いてしまった。じぶんは思っていたよりも泣き虫みたいだ。
 ぽろぽろ涙を零すわたしに、どうしたの、と皆は慌てて声をかける。困った顔をした3人が、私の顔を覗き込む。なんでもないよ、と笑ってみせた。その時に表せる精いっぱいの笑顔で。

 この事を、あとで倉阪さんに話そうと思う。
 誕生日会のときに皆で撮った記念写真は、携帯の待ち受けにした。

 とんとん、と靴を履く。いってきます、と言って、わたしは玄関の扉を開けた。

 今日も天気は快晴だ。

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