真っ白なキャンバスに、筆に含ませた色を塗り付ける。一面は、掠れた線を何度か重ねた鮮やかな赤色に染められて、幾つものつややかな雫が画面を伝う。傍らの壁には数枚の写真が貼られ、足元には様々な色の絵の具チューブが散らばって置かれている。
控えめに部屋のドアが開けられ、誰かが入ってきた。その人はこっそりとした足どりでこちらに向かってきて、自分の後ろに立った。向こうは気付かれないように来ているようだがとうに自分は気付いている。でもあえて気付かない振りをした。そいつは、ゆったりとした口調で話しかけてきた。
「綺麗な赤色だねー」
ぴた、と手を止めて振り返る。そこには予想通り、背高のっぽの同級生、佐々木がいた。
「どうも」
短く返答する。視線を元に戻し、筆に油を含ませる。
佐々木は部屋の隅にある、傷だらけの小さな木椅子を持ってきて、側に座った。椅子の軋む音が聞こえ、一瞥する。体が大きいので椅子が小さく見える。
「何か用?」
パレットに、パーマネントイエローの絵の具を絞り出しながら聞く。
「やー、あのね。ちょっと上町くんに伝えておこうと思った事があってね」
「へえ。何?」
「たまに学校行く前に寄ってるお店があってね、そこの店員さんに上町くんの事を聞かれたんだ」
思わず佐々木の顔を見る。
突然振り向いたためか、佐々木はちょっと戸惑ったようだった。
「何て聞かれた?」
「え、それは……会計の時にお話してたら、こういう人知ってる?て聞かれて、あー友達ですよ〜、て返したら、どこ大学?とかいろいろ聞かれて」
佐々木は、薄緑色の頭をわさわさと掻く。
「で、教えたのか」
「うん。まあ〜悪い人じゃなさそうだったから」
朗らかに笑ってそう言った。
「いや、そういう問題じゃないだろ……」
微かに溜め息が漏れた。多分、あの女性店員だろう、と察しがついた。佐々木の住む家から大学までの道のりの近くに、あの店はあった。もう会わないだろうと、突き放した態度を取ってしまったが、この分だとまた何処かで遭遇しそうな気がする。
なんだか面倒なことになりそうだった。
「ごめん、やっぱり教えない方が良かったみたいだね」
眉を下げて、申し訳なさそうに佐々木が言う。いつの間にか俯いていた顔を上げる。考え込むと周りが見えなくなってしまう癖が、また出てしまっていたようだった。
「いや、気にしなくていい」
首を左右に振る。
まあ、また適当にやり過ごすだけだ。
その次の日。
昼休みの後、1限分だけ空いた時間。自分はキャンパス内の芝生に寝転んでいた。葉の間から漏れ出た光が、ちらちらと揺れて肌を撫でていく。穏やかな風が眠気を誘う。たまらずにひとつ、大きなあくびをした。瞼がゆっくりと降りていく。あと数秒で、眠りにつく–––その時に、
「あ、いた!」
頭上から声がした。
すばやく目を開ける。すると、そこにとある女性が立っていた。
「あなたに、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
青みがかった髪が風になびく。
自分の顔を覗き込む顔は逆光でよく見えなかったが、端正な顔立ちをしていることは分かった。そういえば、あの店で会った女性店員の顔をよく覚えていない。こんな顔だったか、と頭の片隅で考えながら、起き上がって言う。
「何ですか、突然。大体、なんでこの大学に」
「背が高い男の子、佐々木くんだったかな……その子が教えてくれて」
佐々木が教えたことは本当だった。あいつ、素直すぎて将来が不安だ。
「とにかく! この間は、うやむやのままになったけど……その」
少しの間があって言う。
「あなた、あの時何が起こるか知っていたの?」
それは、何度も聞かれたことと同じ質問だった。
「いきなり何を言っているのか、と思うかもしれないけれど……」
相手が何かを言っているが、自分の耳には入ってこなかった。
またか、という考えが頭を占めてしまった。
期待と、疑惑と、好奇の目。
一線を引いて、自分とは違う部類の「もの」だと知った上で、あなたは何をしてくれるの?どう楽しませてくれるの?と首を傾げて聞いてくる。
期待の篭った眼差しはもううんざりだった。向けられた注意を避けるため、自分は知らない振りをした。
「知りません」
自分は即答した、つもりだった。が、少しの間があったかもしれない。
「……本当に?」
藍色を含んだ、夜のような瞳がこちらを見つめる。
今更になって、気まぐれで助けてしまった事を少し悔いていた。
あの時限りで終わる事だと思っていたので、ここまで追ってくるとは思いもしなかった。
正直、
面倒臭い。
「ええ」
自分は会話を終わらせようとした。一刻も早く立ち去りたかった。
授業終了のチャイムが鳴り、ぞろぞろと講義棟から学生達が出てくる。女性が一瞬、視線を逸らした時を見計らって、自分は立ち上がる。坂になった芝生を、柔らかな風が滑っていく。
「それでは」
リュックを引っ掴んで、足早に立ち去ろうとする。ちょっと待って、と言われたが、構わずに歩みを早めた。
付きまとわれるのはごめんだった。
***
夕日が眩しい時間になった。紫色の細い雲が、夕日の手前を流れていく。
佐々木は6限があると言っていたし、今日は1人で帰ることにした。学校脇の山から、カラスが2、3羽飛び立って、カアカアと鳴く。
最寄り駅に近い方の校門から出ようと、昼間居た芝生の脇を通り過ぎようとした。ふと、歩みを止める。
まさか、あの人は居ないよな……という考えが頭を過る。辺りを見回してみる。それらしき人は居ない。
まさかな、と思い、前を見ると–––彼女はいた。
見つけた!と真正面から指をさされる。周りの何人かの学生が、何事かと見る。自分は途方に暮れた。
帰れよ暇人、と心の中で毒づく。
無視して校門へと向かう。出来るだけ早足で歩いた。ちょっと、と言われたが無視した。校門を出た先の曲がり角に設置されたカーブミラーを見ると、やはり女性は追って来ていた。
それは最寄り駅近くに来ても同じだった。向こうは息切れしながらも、歩みを止めない。
無視する事に耐えきれず、駅前の、比較的広い道端で立ち止まる。
「付いて来ないで貰えませんか」
投げかける言葉に棘があることは自覚していた。しかし許せばずっと付いてくる気がしていて、自分は苛立っていた。
向こうは押し黙る。そして何か言いたげな目で見据えている。昔の自分と重なって見え、過去の記憶が引きずられてきそうだった。勝手に手繰り寄せられようとする思考を断とうとする。昔のことは思い出したくもなかった。
踵を返して歩こうとした所で、相手から不意に声が発せられた。
「あなたに! 伝えたい事があるの」
構わず歩く。再度女性は呼びかける。
「待ってよ‼︎」
自分は、立ち止まる。
何度も呼び止められ、うんざりしていた。だが、今の言葉は、悲痛な叫びが含まれていた気がして何故だか引っかかった。
答えは返さず、ゆっくりと振り返って見ると–––
女性は走り寄って来ていて、鋭い視線を、自分に向け、叫んだ。
「数秒後–––鉄骨が落ちてくる!」
ぐん、と、思い切り手を掴まれて引っ張られる。華奢な腕で、どこにこんな力を持っていたのかという驚きで、されるがまま数歩移動する。
そして、その瞬間を待っていたかのように–––凄まじい音が頭上から降ってきた。
重厚な金属の衝撃音、コンクリートの地面を叩き割る音が辺りに飛び散った。
耳につく音がやっと収まると、先程まで居た場所には、何本もの鉄骨が積み重なっていた。地面のタイルは無残な形に割れている。
聞き慣れない大きな音で、耳鳴りが収まらない。その間を割って、ざわざわと喧騒が染み出してくる。
あと数歩先を歩いていたら、今頃下敷きになっていただろう。先ほど背中に感じた風を思い出し、少し寒気がした。
助かったのか、と誰かの口が呟いた。
呟いたのは自分だったと、言い終わってから気付く。
ふと手元を見ると、握られたままの女性の手は震えていた。俯きがちで顔はよく見えない。
けれど覚悟を決めたように、歯をくいしばって、こっちを睨むように見て言った。
「私も、見るの。夢の中で」
一言ずつ、絞り出されるように放たれた言葉は、蔑ろにすることを許さない迫力を持っていた。
藍色の瞳は、溜めた涙で揺らいでいた。けれど映した光は強い意志を持っていて、眉間に寄せた皺ははっきりとした線を結んでいた。
それは、今までに会った人々の中で初めて見た姿勢だった。
僅かに視界が開けた心地がした。
「出来るなら、話が聞きたい」
女性は言う。
視線は逸らせないままだ。
辺りは俄かに騒がしくなってくる。なのに辺りの喧騒は、遠い出来事のように感じる。実際はか細い声になっていたが、その人の声だけはやけに明瞭に耳に届いた。
手は震えながらも、力強く握りしめられている。普段ならば振り払うはずなのに、そうしなかった。
自分は何かを待っていた。
喉に何度かつかえながらも、自分は、答えを、返した。
「……少しなら、聞きます」
向こうの険しい表情が、幾分か和らいだように見えた。
「あんた、名前は」
「……倉阪 葵」
「自分は、上町 直寛」
もしかしたら、自分はこの時嬉しかったのかもしれない。
取り敢えず今は、この騒ぎから逃げ出すのが一番だった。集まってくる野次馬の間をすり抜けて、自分達は駆け出した。
夜がやって来る夕焼けの中を、人の流れに逆らって、つまづかないように精一杯走り抜けた。
***
コツ、コツ、と靴音が響きわたる。
鮮やかな朱色が、黒い空間を裂いて歩く。
床は周りの空間と同じように真っ黒だが、磨き上げられていて鏡のように物を映した。どちらが本物かが分からなくなるくらいだった。
その中で、ぽつりとひとつ、椅子が置いてあった。それは美しい蔓草が象られた焦げ茶色の木枠に、細やかな花の刺繍が施された布地が使われている、豪華なものだ。*は慣れた手つきでそれに腰掛ける。
椅子の傍らには、崩れ落ちた木製の額縁の残骸と共に、色とりどりの花が咲き誇っている。蔓草が絡んだ額縁は風化し、触れると軽い音を立てて割れてしまう。
*は片手に持っていた、金箔があしらわれた臙脂色の洋書のページをめくる。そこには様々な額縁のスケッチと、誰かの顔写真と、走り書きのメモが記されている。それは使い古されていて、紙は日に焼け、所々が千切れたりしている。半分以上失われているページもある。いつから読まれているのかは分からない。
暫くの間捲った後、徐に手を止める。そのままの状態でじっと動かない。沈黙の中、動くものは無くなる。
そして、数回の瞬きの間に、本は勢いよく閉じられる。
本を椅子に置き、*は立ち上がって軽く伸びをする。
さて、と呟く。
「これから賑やかになりそうですね」
此処には誰もいない。この暗闇は何処まで広がっているのかは、見当もつかない。
それでも、誰かに語るように言葉を投げかけた。
誰かに会えるのを待っていた。
答えが返ってくるのを待っていた。
何処かの誰かに、自分の声が届くことをただ信じていた。
額縁の残骸が、からりと音を立てて割れた。