食卓と信頼(前編)

「今度の土曜日、うちに来ない?」
 薄いグレーの受話器越しに伝わる、おおらかな声がそう言った。洗い物などの家事も一通り終わり、うとうととまどろむ中で受け取った話だった。つけっぱなしのテレビからは、最近都内でオープンした商業施設の紹介が流れていて、開けられた窓からは、どこかの家で作る香ばしい炒め物の匂いが入ってくる。私は受話器を持ち替えて答える。
「いいんですか?」
「ええ。お店がしばらく休みだからね、なんだか皆の顔が見たくなっちゃって」
 私はぱっと顔を輝かせる。
「ぜひ!行きたいです」
「あらぁ、嬉しいわ。はりきってご飯を作るわね。そういえば、葵ちゃん、何か食べたいものはある?」
「うーん、じゃあ、唐揚げで!」
「分かったわ!そしたら、うちの場所は前来た事があるから分かるわよね。12時ごろ来てちょうだいな」
 私は、にまにましながら通話を切る。
 丁度、ただいまー、と言って翔太が帰って来た。被っていた黄色い帽子とランドセルをソファーの脇に置く。
 私はすかさず聞いてみた。
「翔太!今週の土曜日、暇?」
「え、べつになんもないけど……どうしたの?」
 翔太は目をぱちぱちさせて聞いてきた。私はふふん、と得意げに、両手を腰に当てて言う。
「岡本おばちゃんの家にお呼ばれしたんだけど、一緒に行く?」
 翔太は、だれ?と疑問に首を傾げる。
「美味しいご飯が食べられるよ」
 私は楽しみでしょうがなかった。

***

 ぽた、と、始めに橙色の雫が落ちてきた。

 街の一点が、鮮明な色に染まる。続けざまに2、3滴と落ちてきて、たちまち雨となって降り出した。ただし、自分がその中に巻き込まれているのではなくて、目の前にある、机上の街並みの一部が雨に打たれていた。1人で使うには大きすぎる白木のダイニングテーブル、その上に広がる街は全てが白くて小さい。作りものの箱庭のようだった。
 自分は、ただ一点へと雨が降る様子を眺めている。風や音はなくて、自分の頭の中でだけ雨音が鳴っていた。色は橙だけではなく、赤や青や緑や多くの色が混ざって流れて、歪な水溜まりを作った。濁る事はなく円形に広がって、ある山の一箇所を取り囲んだ。やがて雨は止んで、色の侵食も止まる。自分は近寄って、どの場所かを確認する。見てみると山の中腹辺りで、その場所だけ木が少なくなっており、開けていた。
 近くに、成人男性と思しき人もいる。建築模型に置かれるような簡素な作りのものだが、繰り返し出てくるその姿に今では見慣れて、性別や大まかな年齢は背格好から予測がついた。その人も街並みと同じく服装が真っ白だったが、例の絵の具に塗れて色付いている。腕に何かを抱いているが、小さすぎてよく見えない。
「そこ」
 少し離れた場所で、見守るようにして立っていた*が不意に言う。砂地を踏みしめてこちらにやって来て、自分の傍らに立ち覗き込むようにして言う。
「どうやら事故が起きるようですね」
 何故知っている?と思い、自分は*の様子を窺う。視線が合うと、薄く笑った。プラスの感情が感じ取れない笑みは、どこか意思が伴っていないように感じた。泣くだとか怒るだとか、心から滲み出た表情を見たことがなかった。それは、ある時期から。いつからだったか。大切な事なのに思い出せなかった。代わりに出てきたのは、様々な事を*が知っていて話すのは昔からだということだった。
 感情や考えが読めないまま、持て余した視線を街へと戻す。
「なあ」
 *がこちらを見た、ような気がした。しかし今度は顔を上げずに話し続ける。水溜まりに走る色の線は流動的で、刻々と形を変える。得体の知れない生き物のようだった。
「水瀬と会ったら、どうする」
 何が聞きたいんだ?と疑問が浮かぶ。*に投げるようで、自分自身に問いかけていた。そもそも質問自体が抽象的すぎる。
 けれど答えは返ってきた。どんな表情で言ったかは分からないが、

「元気でしたか、と聞きますかね」

 自分は反射的に顔を上げる。けれど、姿は忽然と消えていた。砂地には足跡もない。幾分か穏やかな声に感じたのは、気のせいだったか。そんな心地がした。

 瞬きをしたら、目が覚めた。

***

 待ちに待った土曜日。晴れやかな青空の下を2人で歩く。綿のような雲はゆっくりと流されていき、先週のお休みの日に買った真っ白なスニーカーは履き心地が良く、足取りは軽い。暑くも寒くもなく、過ごしやすい陽気だった。脇を一緒に歩く翔太が、私を見上げて言う。
「ねーちゃん、楽しそうだな」
 私はぱっと顔を輝かせて言う。
「美味しいご飯が食べられるってんだから、そりゃ嬉しいですよ」
 なんで敬語、と言った翔太は、怪訝そうな顔をしながらも、ちょっとそわそわしていた。私はお店で聞いた流行りの曲を鼻歌混じりで歩いて、ごちゃついた住宅地の中を突っ切っていった。
 薄茶色の外壁の、玄関前に小さな花の植わったプランターが並べられた一軒家に到着する。表札には「岡本」と書いてある。私は黒くこじんまりとしたインターホンのボタンを押す。こんにちは、と言うと、「いらっしゃい、どうぞー」とくぐもってはいるが晴れやかな声が答える。格子状の磨りガラスが嵌め込まれた、金属製の玄関のドアを開けると、賑やかな声が私達を迎えた。
「おじゃましまーす」
 廊下奥の、リビングに向かって呼びかける。違う家の匂いが漂っていて、少しわくわくした。脱いだ靴を揃えて、つやつやとしたキャラメル色の床板を踏みしめて歩く。
「お!きたきた!」
 と、真っ先に反応したのは店長だった。
「いらっしゃい」
「倉阪さぁん、こんにちはぁ」
「こんにちは」
 と、次々挨拶された。店長の奥さんの良恵さんと、佐藤さんと、先輩の高梨さん。ほかにも、バイトの人が何人か。顔馴染みの、お店のメンバーが集まっていてなんだかほっとした。「こんにちは」と返事をする。岡本店長と良恵さんは、よく人を家に招くらしく、2人暮らしだが家の中はよく整っていた。いろんな人からお土産でもらったよく分からないものとかが、テレビの周りに飾ってある。皆が集まるリビングの壁には、良恵さん手作りのパッチワークが飾ってある。
「今日は張り切ってたくさん作ったから、どんどん食べてってね」
 良恵さんはコンロの所で何か料理を作りながら、嬉しそうに笑ってそう言った。
 ダイニングテーブルには色々なおかずが置いてあって、リビングのローテーブルや奥の和室に座って、思い思いに食事を楽しんでいた。佐藤ちゃんは良恵さんの手伝いをしていて、皆にご飯や味噌汁を渡している。荷物を置き、私も手伝おうかな、と振り返ると、
「倉ちゃん!お久しぶり~」
 と、高梨さんが無邪気な笑顔を向けてきた。
「元気にしてた?みんなと会うの久々だから嬉しいよ」
 そう言って、はにかんで笑った。高梨さんは、私の数年前に店に入った男性だ。人当たりが良く、誰に対しても親切で人を悪く言っているところを見た事がない。見た目もすらりとしていて目鼻立ちははっきりとしていて、背が高い。不真面目な感じはしなくて、いわゆる『好青年』というやつだ。ただ、一点を除いては。
 高梨さんは、この料理美味しいよー、と自家製のソースがかかったポークソテーを勧めてくれた。木目の綺麗なダイニングテーブルに並べられた料理は、和洋折衷様々なものが揃っていた。私がリクエストした唐揚げに、麻婆茄子、豆腐とワカメの和風サラダ、お刺身の盛り合わせ、トマトと茄子のミートソースパスタ、ポテトサラダ、ほうれん草の胡麻和え、エビとアスパラガスのにんにく炒め、かぼちゃコロッケ……などなど。ご飯はつやつやとした白米で、味噌汁は豚汁だった。
 想像以上の品揃えに、私は驚いた。これだけの量と種類を作る気合いがすごい、と尊敬してしまう。良恵さんは、人と一緒にご飯を食べるのが大好きみたいだ。こうやって何回か、家にお邪魔させてもらっていて美味しい料理をご馳走してくれている。私自身、食事は充実していることはこの上なく嬉しいので、つい好意に甘えてしまう。感謝の気持ちが少しでも伝わればと思い、私は丁寧に手を合わせて「いただきます」と言った。翔太も何となく感じたのか、手を合わせる。
 料理は、期待通り、というか、それ以上に美味しかった。唐揚げは衣がカラッと揚がっているからかサクサクした食感で、鶏肉は肉厚で身がぎっしり詰まっていて、食べ応えがあった。肉屋さんから買ってきたと言っていたから、新鮮なんだろうと思った。お刺身も身が透き通っていて脂がよくのっていたし、味付けはどれもしょっぱかったり濃かったりしていなくて、素朴で落ち着く味だった。サラダのドレッシングは酢がベースになっていたが、酸っぱくなくまろやかな味わいだった。自家製だと聞いたので、気になった私は良恵さんから作り方のレシピを聞いてメモさせてもらった。ついでにそれに合う野菜の組み合わせも聞いた。今度家でも作ってみようと思う。
 食事をしながら、話題はそれぞれの近況報告になっていた。佐藤さんは最近彼氏とデートしたけれども、キスしようとしたら、お互いなんだか恥ずかしくなってしまい出来なかったとか、店長と良恵さんは今度の休みに温泉旅行に行くそうだとか。わいわいと話してるうちに、あっという間に時間は過ぎていった。

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