「美味しかったねー。さすが、良恵さんだ」
 高梨さんと、私達は途中まで帰り道が一緒なので連れ立って歩く。夕方の気配は少しずつやって来ていて、自転車で友達と一緒に走り抜ける小学生が何人か隣を横切る。
「そうですね。あれくらい料理が作れたら、楽しいだろうなあ」
「外食しなくても美味しいもの食べられるんだから、店長幸せ者だよね」
「久し振りにみんなに会えたし、元気そうで良かったです。あ、そういえば。高梨さんは最近何処か行ったりしたんですか?」
 私がそう話しかけると、待ってましたと言わんばかりに、きらきらとした目をこちらに向けてきた。
 これは。
 しまった、と思うがもう既に遅い。
「実はね!最近河童が出るっていう地域に行ってきたんだよ。道がもう大変で、途中までは車で向かったんだけど、山道はもう通れないくらい狭い道だから歩くしかなくってね。獣道みたいな所をずーっと探し歩いて、水の音が聞こえる方に向かったんだ。そしたら、薄汚れた石碑を見つけてね、手で擦り落として文字を見てみたら、話に聞いてた所だと分かって。やっぱり合ってたってなって嬉しくて。1人だったけどもう舞い上がっちゃったよね。周辺の写真を何枚も撮って、わくわくして池の周りを歩き回ったよね。草がたくさん生えていて、虫も多かったんだけど、会えるかもしれないって思ったら全然気にならなかったよ。何ヶ所か刺されたけどね」
 息もつかせず一気に話すので、わかってはいたが私はたじろいでしまった。
 高梨さんは無類の超常現象、未確認生物が大好きな人なのだ。それ系の話題をする機会が訪れると、目を輝かせて楽しそうに話す、というより、語る。こちらが知識を持っていなくても丁寧に解説してくれるので、圧をかけては来ないが調子によっては延々と話し続ける。
 翔太の様子をちらりと見ると、高梨さんをそっと見つつ、私の服の端を掴んだまま固まってしまっている。後で事情を説明しようと心に決める。
「それで、河童はいたかっていうとね、見つけられなかったんだよね。でも、そこにたまたま来ていたおじさんから、何回か見たことがあるって話を聞いて!持ってた写真を見せてもらったら、池に、影が」
「高梨さん、そろそろ家が近いので、失礼します!」
 私が話を無理矢理遮ると、あ、そっか、と気付いた様子でぱたりと話をやめた。
「じゃあ、また今度ね」
 にっこり笑って手を振った。
 高梨さんと私達は、別々の方向に向かって歩いていく。別れてしばらくして、翔太が恐る恐る口を開いた。
「ねーちゃん……あの人、ちょっと怖い」
「まあねえ、スイッチ入るとああなっちゃうんだけども。普段は良い人なんだよ」
「そうなのかなあ。ぼく、苦手だ」
 私は不安がる翔太の頭を、わしゃわしゃと撫でる。やめろよ、とむっとした顔をこちらに向ける。
「料理、美味しかった?」
「……うん」
「そりゃよかった」
 にーっと私は笑った。つられて翔太もへらりと笑った。

***

 どこかの街の道に立っている。

 自分の顔が揺らいで映る、地面を覆う水面から顔を上げると、真っ白で巨大な建物が目の前にあった。◯◯病院と書いてあるのを見つけたが、何処の病院なのかは読めない。
 足元を浸す水は、わずかに流れを伴っている。その源流を辿っていくと、病院の出入り口から流れ出ていると分かった。中から呼ばれているような心地がした。頭上の空はやけに真っ青で、周りの住宅はひっそりと静まりかえっている。インターホンを鳴らしてみようとは全く思わず、真っ直ぐに病院の出入り口へと向かった。確かめなければいけない心地がしていて、回りくどい行動は省きたいと思っていた。誰かに呼ばれて答えることは当然の行動だと、何故だか分からないが、揺らがない意思があった。
 開けっ放しになっているエントランスの透明な自動ドアをくぐると、床一面は外と同じように水で浸されていた。水の透明度は高く、くすんだ色合いの床が透けて見える。明かりは点いているが、外と同じく人の気配はない。
 上へと向かう手段を探して見回すと、エレベーターが目に入る。しかし、水攻めにでも遭ったら怖い。案内板を見つけ、奥にあった階段を登る。もっとも、上の階から常に水が流れ出ているので、水流に逆らって進むのは苦労した。飛び散った水を、着ているワンピースが吸って重くなるので、時折服の端を絞りながら向かった。
 流れ出る水は、上に行くにつれて勢いを増していた。どうやら、3階のある一室が原因のようだった。先程から何故か水の音はしない。フロアに入ると、下の階よりも水位の増した廊下に出た。ガーゼや誰かの時計、ぬいぐるみなどが水面に浮いている。私は恐る恐る歩いていく。看護師や患者はいない。人が多くいるはずの建物に誰もいないというのは、正直言って不気味だった。水流に負けないように、壁づたいにゆっくりと進む。この先に何があるのか予想もつかないが、知らなければならない使命感と、好奇心と、戻りたい怖さが入り混じって、ただただ突き進んだ。
 そうして目的の場所、病室の前へやっとの思いでたどり着いた。壁に設置された手すりを掴みながら、病室のプレートを仰ぎ見る。外の看板と同じく、名前はぼやけて溶けてしまい読むことは出来ない。息は上がっていて、予想以上に体力を取られていた。額の汗を手の甲で拭い、張り付く髪の毛が鬱陶しくて、片手でかき上げる。私は意を決して、勢いを付け力一杯引き戸を開けた。
 室内を見ると、窓際のベッドに誰かが座っている。その人は、窓の外の景色を眺めていてこちらに背を向けている。紺色の髪に、細身の身体。どこかで見た人のような気がした。白い室内に、四角く切り取られた外の青色がやけに眩しい。私が一歩踏み出すと、やけに大きく水音が鳴った。この不可解な世界に来てから初めて聞こえたその音に、私はたじろぐ。音を聞いてか、その人はこちらをゆっくりと振り向いた。スローモーション映像を見ているみたいに、ひどくゆっくりと、こちらを見た。
 瞬間。その人は、にっこりと笑った。

 高梨さんは笑った。

***

 がばりと身を起こすと、暑くもないのに身体中に汗をかいていた。嫌な予感しかしなかった。杞憂に終わればいいと、朝の早い時間だったが高梨さんに電話をかける。何コール目かにぷつりと音がして、留守番電話のメッセージが流れる。
 朝で忙しい時間だったからだろうと自分に言い聞かせる。今回は具体的に何が起きるかはわからなかった。ただ。高梨さんが入院するという夢が現実になるのではないかと、胸騒ぎがした。
 私はスマートフォンの待ち受け画面をじっと見つめていた。

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